はじめに
山椒魚を扱った小説と言うと、まず井伏鱒二の「山椒魚」が頭に浮かぶ。岩屋から出られなくなった山椒魚の悲嘆を描いた作品だが、実際本作の感想の中にも、井伏のものと勘違いして読んでしまったとの感想をよく見かける。
またこちらは未読だが、アルゼンチンの作家、コルタサルにもずばり「山椒魚」と言う名の短編がある。『遊戯の終わり』に収録されている短編で、どうも山椒魚に意識が乗り移ってしまった男の姿を描いた作品のようだ。
そして何より山椒魚文学――と言うものがあるとすればの話だが――としてカレル・チャペックの『山椒魚戦争』を挙げなければ嘘と言うものだろう。東南アジアの海域で偶然発見された人語を解する大山椒魚。当初労働力として使役されていた彼らが徐々に普及し、人類に成り代わっていく。そんな人類の終わりの一部始終を様々な角度から描いたこちらのSFは、個人的にオールタイムベストとして推したいほどに大好きな作品だ。
山椒魚にはどこか人を引き付ける魅力がある。チャペックの『山椒魚戦争』を読んで以来、私はふとそんなことを思う時がある。あの愛らしく不格好な姿。のっそりとした動き、ぬめりのある体表。つぶらと言うにはあまりにも小さすぎる瞳……。
本作の作者、岡本綺堂もまた、そんな山椒魚に魅力を感じた一人なのかも知れない。
感想
物語は、ある男が二十年前に出くわした事件を語るという形で始まる。旅行中、男が木曾の旅籠屋に泊まった時のことだ。彼は同じ宿に泊まる男子学生二人が、魚屋から山椒魚を一匹買い求めているのを見かける。一体何のためにかと訝しむ男だったが、それは時を経ずして判明する。
夜、眠りにつき始めた時のこと。同じ旅籠屋に泊まる女学生三人の悲鳴で目を覚ました彼は気付く。どうやら男子学生が女学生の枕もとに山椒魚を忍び込ませたらしい。そのために彼らは山椒魚を買ったのだと。
ここまでならただの悪質な悪戯で済む話だが、ことはそれで終わらない。
女学生たちが山椒魚の正体に気付き安心したのも束の間、その内の二人が突如苦しみだしたのだ。すぐに医師が呼ばれ処置を施すも、その甲斐なく二人は死んでしまう。診断結果は食物による中毒。当初は宿の食事が疑われたが、同室の女学生を含め宿の食事を食べた他の者に被害は見られない。一体二人は誰に殺されたのか……。
あらすじを読めばわかる通り、本作は探偵小説の一つだと見て間違いない。事実、著者の岡本綺堂はホームズに影響を受けて代表作の『半七捕物帳』を執筆した。こちらは江戸時代を舞台とした時代小説ながら、探偵小説としての要素を含んだ捕物帳ジャンルの嚆矢とされている。
だが、本作の魅力は推理小説としての推理要素にはない。事件の真相は成り行きで判明するし、そもそも女学生の死に謎らしい謎は含まれていないからだ。
本作の何よりの魅力は地の文の描写にあると私は思う。木曾街道を宿駅から宿駅へ旅する男。寂れた旅籠屋、縁側から覗く山々と空にきらめく星々、秋を感じつつ、機織虫の音を背景に眠りにつく。
死因として候補に挙がった夕食の内容にも風情がある。山女の塩焼き、豆腐の汁物、お椀に盛られた湯葉と油揚げにきのこ。字面を見ているだけで食欲が湧いてくるようだ。
二十世紀初頭の日本を感じられるのも良い。その当時を知らない私などでも、古き良き日本にいるかのような懐かしい気分にさせられる。まるで品の良い日本映画を見ているかのようだ。
ただし、本作の魅力はそうした情景などの描写だけではない。
これについてはネタバレを含むため以下注意されたいが、本作は事件の真相が犯人の告白を経ずに判明する形を取るため、実は作中で明かされる真相が本当に真実なのかどうか、読み手は確証を得ることが出来ないのだ。
僕はその醜怪な魚の形を想像するにたえなかった。それが怖ろしい女の姿のように見えて――。
本作は最後このような文章で締めくくられる。ここでは山椒魚の姿に仮託して女性の醜さを表現しているわけだが、果たして恋敵を毒殺しただけでそこまでの言われようがなされるのだろうか。
例えば、男子学生と恋仲にある女学生に犯人が懸想していた可能性も考えられる。同性同士の恋など当時では許されるはずもない。死んだ女学生の家族が事件を公にしないよう動いたことも、この妄想に拍車をかける。
また、互いに毒を盛り合った可能性も否定できない。恋敵を排するための互いの行動が相打ちを導いてしまったのだ。料理を入れ替えたとの証言があるためにこの可能性は限りなく低いが、ありがちな真相としてはよく見かける。
真相は藪の中。通常推理小説の難点として見られるこうした明証性の弱さが、かえって奥行となり読者の前に立ち現れる。現代の傾向からすると推理小説としての評価は高くなり得ないが、現代の確とした推理小説にはない趣を味わうのもまた一興だろう。
おわりに
それにしても、岡本綺堂は山椒魚を不気味や醜怪などと形容したわけだが、かの両生類に可愛げがあると思ってしまうのは現代的な感覚なのだろうか。また痴情のもつれによる殺人――その合理性を含めて――をもって女性を怖ろしいとみること自体、現代的な感覚からすれば少しずれを感じる。
女の業などと言う言葉もあるが、思えばそれも前時代的な感覚なのかも知れない。そもそもの話、人間の心理や内面などは、性差に関係なく不透明で奇怪なものなのだ。黒々とのたうつ山椒魚のように……。
▶山椒魚 (1929)
▶作者:岡本綺堂
▶底本:文藝別冊[総特集]岡本綺堂、河出書房新社