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【読書感想】ルース・レンデル『ロウフィールド館の惨劇』心理小説としての面白さとその裏に潜む居心地の悪さ。カヴァディル一家はなぜ殺されたのか。

サスペンスの由来は英語の suspend(=宙吊り)に由来していると言う。観客の心を不安定なまま宙吊りにして物語が進行することからの連想だろうが、そうした作品では観客を宙吊るために引きとなる謎ないし展開を用意し、飽きさせないよう工夫を凝らす。

そしてこれらの引きや謎は当然ながら早い段階で明かされなければならない。でないと客は飽きて本を閉じるかチャンネルを変えるか、あるいは席を立ってしまうからだ。序盤で如何に興味を持たせて緊張感を維持させるか、それが作家の腕の見せどころとなるわけだが、今回感想を書いて行く『ロウフィールド館の惨劇』は開幕の一文でそれを見事にやってのける。

ユーニス・パーチマンがカヴァディル一家を殺したのは、読み書きができなかったためである*1

ミステリにおいて解明されるべき要素は主に三つ。それはいわゆるフーダニット、ハウダニットホワイダニットに対応する「犯人」「トリック」「動機」の三つだが、この一文ではその内の二つの武器を捨てる代わりに、読者の胸中を「何故」と言う言葉で埋め尽くす。何故彼女は文字が読めないことを理由に人を殺めたのか。私たちはその疑問を胸に、惨劇までの経緯を固唾を飲んで読み進めていくこととなる。

読み進めていく中で見えてくるのは、殺人を犯すこととなる家政婦・ユーニス・パーチマンと共犯者ジョーン・スミスの異常性、そして彼女たちの犠牲となるカヴァディル一家のスノビッシュで小市民的な姿と、優しさと表裏一体の残酷さだ。善意から来るお節介はユーニスを追い詰め、惨劇への道を舗装する。良かれと思ってした行いが、自らの首を絞めていたことに当人たちは最後まで気付かない。

しかし読めば分かるが、彼らは殺されるべくして殺されたとは到底言えない善良な一般市民だ。そして惨劇を引き起こすこととなるパーチマンにしても、殺人を生業とするクレイジーな大量殺人犯では決してない。選択肢によっては館の床が血肉で汚れない未来もきっとあったはずなのだ。ボタンの掛け違いなんて言葉があるが、この事件はむしろ無数にあるボタンがこれ以上ない形で留められた結果と言えるだろう。

度々繰り返される「もしここで〇〇していたなら」「これが〇〇する最後となった」と言った未来を暗示する地の文により、読者の不安は掻き立てられ心は宙吊りとなり、いずれ訪れる結末への期待から頁を捲る指に力が入る。

そんな事件の成り行きを追うサスペンス要素と同時に、ユーニス・パーチマンを始めとする登場人物たちの心の内を垣間見る心理小説としての面白さも本作にはある。鉄仮面の家政婦と狂気に犯された宗教家と言う犯人コンビの心理は言わずもがな、被害者である家族は家族でまた面白い。スノッブで自身の善良さを疑わない一家の大黒柱である父親、器量の良い同性と打ち解けることに抵抗を示す美人の母親、箱入りが故に世の悪意を知らない姉、世間を拒絶し義理の姉とのバイロン的な夢想に耽るインテリな弟……。

私たちはイギリスの片田舎で彼らが繰り広げるこの悲喜劇を見守るしかない。そして自分が巻き込まれていない時に限ってだが、こうした悲劇は見ている分には面白い。そして後述するが、この作品には喜劇としての要素も多分に含まれており、それがまた本作を一層面白いものにしている。

本作はサスペンスとしても心理小説としても面白い。面白いのだが、読中や読後に「あー、面白かった」と素直に言えない居心地の悪さや気まずさを感じるのもまた事実である。それは何も翻訳のぎこちなさだけが原因ではない。そして読み終わった後に残るこの消化不良感は、善良な市民であるカヴァディル一家に起きた不条理だけが理由でもないだろう。

ではそれは何故なのか。恐らくその原因の一つは、この物語を単純化しようとする書き手の意志に対する私たち読み手の反発であろう

それは既に冒頭の一文からして始まっている。ユーニスは文字が読めないために人を殺した。読者はその言葉が意味するところに関心を寄せて物語を追っていく。しかしこの本を読んだ人間ならわかるが、彼女の犯行動機はそう単純ではない

確かにパーチマンがカヴァディル一家を殺すこととなった発端は自身のコンプレックスである秘密が家族に知れ渡ったためである。彼女にとってそれは墓場まで隠し通したかった疵であり、言わば竜の逆鱗であった。

けれどその背景にはいくつもの原因が積み重なっている。その一つが彼女の置かれた家庭環境の問題であることは否めず、戦争のために教育が十分になされなかった不運も要因として挙げられるだろう。こうした複合的な問題を一つの問題(=文盲)にして切り捨ててよいのか、読者は著者が提示する単純な結論への反発故の緊張感を持って本書を読むこととなる。

また作中で文盲へと向けられる言葉も厳しい。

読み書きの能力は文明の礎石のひとつである。文盲は肉体的な欠陥ともいえるのだ。そして肉体的な欠陥をもつ人々にかつて向けられた憫笑が、いまや文盲の人々に注がれたとしても不思議ではないだろう*2

文盲のゆえに同情心は枯渇し、想像力は萎縮してしまった。他人の気持ちを忖度する能力も、心理学者が情緒と呼ぶものも、彼女には欠落していた*3

これはあくまで一例であって、文盲への偏見、文字が読めないために起こる弊害が作中ではこれでもかと言い立てられる。酷い言い草ばかりだが、果たしてこれは単なる時代故のデリカシーのなさと断じて良いのだろうか。作者の本はこれが初読みであるため断言は出来ないが、読者のこうした反応すら意図したものではないかと私は思う。

そしてその居心地の悪さに拍車をかけるように、本作のユーモアはいささかブラックに過ぎる。上記のユーニスへの扱いだけでなく、カヴァディル一家を始めとする登場人物を笑いものにする際の言葉も鋭い。鋭さゆえの面白さに思わず笑みがこぼれそうになるのだが、素直に笑ってしまえばそれは著者の思うつぼだろう。

容姿に自信を持つが故に同性とそりが合わないこと、頭の良さを鼻にかけて自分が特別だと思ってしまうこと。自らの歳を鑑みずに若作りに励むこと、知られたくない秘密のためにしょうもない嘘をつく通すこと...etc。滑稽に描かれる彼らの事情は何も特別なものではない。私たちにだって大なり小なり彼らの欠点や性格の難が含まれている。つまり私たちが著者の物言いに肩入れして登場人物たちを笑う時、それは自分をも笑っていることを意味するのだ。

他者を馬鹿にする罪悪感と同族をけなす後ろめたさ。これが本書を読んでいる際に陥る気まずさのもう一つの要因だろう。読者にも向けられた皮肉のための辛辣な物言い。これが著者のドギツイ言葉の意図ではないだろうか。

サスペンスとユーモアの面白さ。これが本作における二つの柱だと思うが、共通するのは共に人間の心理を見事に描き切ったがための面白さであることだろう。特に女性の心理描写は巧みで、これは女性作家ならではの魅力と言えるのかもしれない。

長々と書いてしまったが、本作はとても面白い作品だと思う。翻訳が読み辛いこと、ユーニスとジョーンの関係の進展がいささか性急であることなど、気になる点もあるにはあるが、全体の面白さからすれば些細な問題だろう。

ちなみに、ユーニスが文字を読まざるを得ない状況にいつ巻き込まれるかヒヤヒヤしている様子は、順繰りに生徒を指していくタイプの授業で予習をせぬまま席に座っている時の嫌な思い出を思い出した、と自分語りをしたところで今回はこの辺で。

ではでは。

▶ロウフィールド館の惨劇 (A Judgement In Stone / 1977)
▶作者:ルース・レンデル
▶訳者:小尾芙佐
▶カバー:杉本典巳
▶発行所:角川書店
▶発行日:1984年6月25日初版発行

*1:ルース・レンデル『ロウフィールド館の惨劇』、小尾芙佐訳、角川文庫、1984年、5頁

*2:同書、5頁

*3:同書、70頁