第8回ハヤカワSFコンテストにて優秀賞を受賞した『ヴィンダウス・エンジン』を読んだ。毎年『SFが読みたい!』を読みつつも、その都度話に付いていけていない人間からすれば、ここ数年の内に発売されたSFを読んでいると言うのは非常に珍しい。
とは言え、読んだきっかけはぶっちゃけてしまえば偶然見かけたからに他ならない。あらすじに書かれた、動かないもの一切が見えなくなると言う未知の疾患、ヴィンダウス症。そして鈴木康士氏の手になる魅力的な表紙。これらの要素が目の前にあって、手に取らない理由がないだろう。
いざ読み始めてみると、たちまちこの本の世界観に引き込まれた。一人称による軽妙で軽快な語り口。煌びやかで華やか、異国情緒に溢れる近未来の成都の街並みと風俗は、読む者を自然とワクワクさせてくれる。
もっといい例えがあるかも知れないが、私の限られたSF知識から例えるならば、本書は『ニューロマンサー』と伊藤計劃を足して2で割ってライトノベル調に仕立てた作品と言えるかも知れない。と言っても、ギブスンのような猥雑で野性味あふれる未来はそこにはなく、計劃作品のような小難しい語りも本書にはない。
拙い私のイメージが合っているかは実際に読んで貰って判断してもらうとして、そんな本作のあらすじはこうだ。
時は2030年代。動かないものが見えなくなる奇病、ヴィンダウス症を発症した主人公キム・テフンは、自らの世界が徐々に失われていく中、自我崩壊の寸でのところで世界の微々たる変化(=動き)を掴み取り、視覚を再構築することに成功、世界に類を見ないヴィンダウス症の寛解者となる。
それはただ病気を克服しただけでなく、彼が世界の変化を肌で感じ、自らのバイタルをも我がものとする超人となったことを意味した。そんな劇的な寛解から一年、主治医により中国は成都へと呼ばれた彼は、都市の運営を行っているAIと接続し、都市運営の更なる向上に協力することを要請される。新時代のサイバー都市にて、彼は一体どのような陰謀に巻き込まれ、ヴィンダウス症の寛解者として何を成し遂げるのか。
澱みなく進む一人称による語りと台詞のために、一度ページを開けば最後、一気に結末まで読んでしまうこと間違いなしの本作、語りだけでなく、壮大なスケールの中で繰り広げられるアクションの数々も読む者を魅了する。そしてそんな可読性を支える要素だけでなく、視覚的な想像力を刺激してくれる描写の数々もまた素晴らしい。近未来の成都の街並みは勿論のこと、強襲型仮想現実と呼ばれる技術によって実現される仮想空間内の幻想的な描写は読む者を引き込んでやまない。
流石は優秀賞受賞作と言うべきか、著者の描く世界の姿は鮮明で躍動感にあふれ、読者を物語に引き込む筆力はとても新人とは思えない。本作は取るべくして優秀賞を受賞した作品だと言えるだろう。
ただしここまで褒めておいて何だが、気になる点がないわけでもない。
本作の問題点については、巻末に収められたコンテストの選評者たちの言葉で言い尽くされていると言って良い。なのでここでわざわざ私が言い立てるまでもないのだが、敢えて古のラノベ読み的な観点で一つ付け加えるならば、やはりキャラクター、特にヒロインの物語における影響力の弱さが気になった。
例えばこれが伊藤計劃であったならばこうは行かなかっただろうし、ライトノベルの書き手で言うならば、例えば西尾維新ならば、彼女たちにもっと印象的な発言なり行動なりを取らせたことだろうと思う。
自らと反対の道を選んだ聖女との一度限りの邂逅。目の前で自我を失う同病の女性。これほどまでに主人公にトラウマを植え付け、物語及び読者に暗い影を落とす存在は本来あり得ない。しかし、本書において彼女たちは記号的な役割を脱してはおらず、ただ無為に消費されてしまっていると言って良い。
これはひとえに、主人公によるヒロインへの執着が見えてこないことが原因のように私は思う。またそれと関連し、語り手による独りよがりの独白、気持ち良くなるための自己憐憫の描写が圧倒的に足りていないことも無関係ではあるまい。これについては好みの域を出ないが、緩急をつけるためにも、この手のくどい描写はあっても良かったのではと思ってしまう。
またこれは未熟なSF読みとしての感想だが、ヴィンダウス症の症状自体が物語に深く関わってこなかったことも気になった点の一つである。視覚が再創造されると言う描写から、これはもしや人間における認識の問題へと踏み込むのかと思いきや、そこには特に触れられず、物語は動的なアクション展開へと移ってしまう。
それはそれとして楽しめたので、アクションへの移行自体に不満はないものの、ヴィンダウス症が魅力的なだけに、もう少しこの病気を深く掘り下げてくれても良かったのではと思わずにはいられない。それもこれも、本作が面白いからこそ出た不満なので悪しからず。
と、素人がもっともらしいことを書いてはみたが、これらの欠点を補って余りあるほどに本作は面白く、著者が描く世界は爽快で清々しい。次作でもそうした魅力に溢れた作品を読ませてくれるのか、はたまた新たな地平を読者に見せてくれるのか、作者の次回作が楽しみでならない。