たぶん個人的な詩情

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【読書感想】『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』―― 指摘は納得。ただし本書の教えが活きる場所は教育現場に限られる気も。

はじめに

余程自分に自信があるか、他人に興味がないか、そもそも「正しさ」なんてものを信じていない人でもない限り、本読みと呼ばれる人は一度ならず自分自身の「読み」に不安を感じたことがあると思う。

それは小説しか読まない人であっても例外ではなくて、ちょっと難しめの本の名前を検索フォームに入力すれば、たちまち「意味」や「解釈」なんていうサジェストが表示される。そしてそんな人々の不安を裏付けるかのように、「正しい」読み方や読みの技術を指南する類の本やコンテンツは世に溢れて留まることを知らない。

私自身そうした不安に駆られたことは何度もあって、何気なく読み終えた本の解説で気付きもしなかった指摘や解釈が提示されていると、私は何をやっていたんだろう、という気持ちに苛まれてしまうことがよくあった。

いわゆる「正解」に対する不安と言うべきか、私たちは存在するかもしれない正解を求めてハウツー的な技術を追い求めてしまうのだ。だからだろうか。今現在そんな不安は収まっているのに、未だその手の本を目にすると思わず手に取ってしまう自分がいる。

情けないなあとは思いつつ、今回感想を書いて行く本もまさしくそんな類の本で、タイトルは『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』。

光文社新書から出ているこの本、15年以上前に発売された本ながら、未だAmazonでは新刊が売られているし、レビューの数も優に300件を超えている。読んでみたところ、売れている理由にも納得がいく。ただ所々「おや?」と思う点があるのも否めない。

今回は内容に触れつつ、そうした疑問点も含めてざっくばらんに感想を書いて行きたいと思う。人によってはこれが批判に見えるかもしれないし、お門違いな指摘をしているのかも知れないけれど、そこはご了承いただくか、私の落ち度をご指摘いただければ幸いである。

感想

「わかったつもり」で安寧としている私たち

普段私たちは文章を読んでいる時、よほど難しいものでもない限り、基本的には書いてある内容が「わかる」。外国語の文章ならいざ知らず、日本語なのだからそんなの当たり前じゃないか、と思われるかもしれないけれど、ここで括弧していることからもお察しの通り、この「わかった」という状態は実は本当ではない。

何が言いたいのかと言えば、それはあくまで「わかったつもり」に過ぎないのだ、というのが本書の指摘である。真の意味で文章を理解する、本書の言葉を借りるなら「よりよく読む」ためには、この「わかったつもり」状態をぶっ壊し、そこからさらに一歩踏み込む必要があるという。

だがしかし、この「わかったつもり」と言う状態が実に厄介極まりない。もし文章を読んで「わからない」のであれば、私たちは辞書なんかを用いてわかろうと努力することができる。だがしかし、当人にとってこの「わかったつもり」は「わからない」ことがない一種の安定状態であるために、わざわざ自分からそれを壊そうとは思わない、というわけだ。

私たちが「わかったつもり」に陥るわけ

著者はこの指摘のもと、いくつかの文章を読ませ、私たち読者が普段いかに文章を何気なくテキトーに読んでいるのかに気付かせる。引用される文章の多くは小学校の教科書からのものであり、内容として理解できないはずはないのだけど、多くの見落としのために「わかったつもり」に陥っていることをアハ体験的に示そうと言う訳だ。

それに続き、本書ではどうして私たちがそう言った事態に陥ってしまうのか、その理由をいくつかのパターンに分けて解説している。この辺りは実際に読んで貰った方が早いし、例文をくどくど説明するのもあれなので詳細は省く。

ただ個人的に面白いと思ったパターンについては触れておきたい。それは「ステレオタイプ」に引っ張られて文章を解釈してしまうというもの。読んでいる小説を事前に知っている物語の形式に当てはめて「わかったつもり」になるというのがこの典型例だ。

またこのパターンの一種としては、既存の道徳観や社会通念に当てはめて物語を「善きもの」として受け止めてしまうなんていう例も取り上げられている。著者はこれを「善きもの」の魔力とし、読者が「無難」な方向に流されやすい傾向が背後にあるからではないかと指摘している。

「つもり」に気付くにはメタ的な指摘が必要ではないか?

ここまで本書を読んでいて、「なるほどこれは一理ある。もっともな指摘だ」と目から鱗が落ちかけたのだけど、ここで一つの疑問が残る。それは、そもそも私たちは誰かの力添えなしに「わかったつもり」に気付けるのか、ということだ。

私自身、哲学書なんかを読んでいると途中で文意が分からなくなり、用語の意味を確認してようやく自らの誤読に気付かされるなんていうことがよくある。ただしこれは文章自体が難しく、後の文章との齟齬で自ら間違いに気付くことが出来るパターンだ。本書が取り上げている例文は、文意が通るために最後まで読み通せるものの、実は見落としや誤解が生じているというパターンであり、著者の指摘なしに「つもり」に気付くことは難しい。

私たちは何かしらの引っ掛かりや疑問が残ったために読み返してみるのであって、これは「わかったつもり」ではなく「わからない」状態であるに過ぎない。「わかったつもり」だと気付くには、やはりどうしても「答え」を知っている側、つまりはメタ的な視点からの指摘が必要になってくる。例えば巻末の解説やネットの感想、あるいは本書のような「先生」からの教えなどなど。

本書には「わかったつもり」を避ける方法として、一読では深い読みに至れていないことを肝に銘じるべき的なことが書かれているのだが、そもそも「わかった」文章をこれ以上に深掘りしたいという状況は限られている。

そして一つの文章にそうそう時間なんてかけられない以上、やはりどうしても一読した時点である程度読めている必要はあるし、「わかったつもり」に陥らないよう最初から気を付けることが肝要なのではないか。本書でのアプローチが生きるのは、丹念に一つの文章が読めるという限定的な場でしかない。

本書が実践できる場とは。誰へ向けた本なのか。

では、著者がこの本の教えを実践する場として想定しているのはどこなのか。あるいは実際にこの教えが活きて来る場所はどこなのか。これについては本書で言明されていないものの、それは教育現場、あるいは試験の場に限られるのではないかと思う。

文章を一読した後に読み返す時間があり、高成績を狙う以上読者にはその意欲も当然ある。そして何より、文章の解釈に対する「答え」が後々提示されるため、自らの「わかったつもり」と向き合うタイミンングもあるのだ。

著者は教育学の専門家であるために、文章を読む際に躓くサンプルとして教育現場を念頭に置いてしまったのかも知れない。あるいはそもそもの話、本書は文章に対する普遍的な問題を取り扱った本ではなかったのかも知れない。

本書では終盤、唐突に現今の国語教育についての疑問が提示され、一つの提案がなされる。センター国語の小説を例にしたその指摘についてここで意見を差し挟むつもりはない。そもそもの話、この問題は日本の国語教育の目的、あるいは大学が「国語」に対して求める要求についての定義がなされなければ答えようがないからだ。

話を戻すと、本書が現今の国語教育を憂いて書かれた本であり、そうした現場での教育を補助する目的の本であるならば、この本の問題提起と構成はすごくしっくりくる。

文章を読む際に生徒たちがどこで躓いているのか。どうして本文に書かれた文章と齟齬をきたす解釈をしてしまうのか。そうした疑問を持ち、解決したいと思う教師のためならば、本書はとても実用的だと言えよう。

だがしかし、著者が巻頭で述べている「文章をよりよく読むためにはどうすればよいのか」という問題は残念ながら解決し切れていないように思う。

「わかった」は「わかったつもり」。「わかったつもり」は「わからない」が見えていないだけに乗り越え辛い。これらの指摘が明快で面白いだけに、ちょっと期待し過ぎてしまったのかも知れないが、面白い部分はたくさんあるし、教育現場で働く人なら特に得るものが多い本だとは思う。

おわりに

本書についてはこれ以外にも、引用する文章の解釈についてちょっと思うところがあったりと、触れてみたいところはあったものの、これ以上重箱の隅を突くようなことはしたくなかったので今回はこれまで。

そもそもの話、仕事や学業、あるいはネットで無様な感想を書かないため(!)にはちゃんと文章を読む必要があるけれど、自分の胸の内に留めて置く限りはどんな誤読をしても構わない気もする。

最後にちょっと自らを戒めたところで今回はこの辺で。では。

▶わかったつもり 読解力がつかない本当の理由
▶著者:西林克彦
▶発行所:光文社
▶発行日:2005年9月20日初版発行