はじめに
目から鱗の落ちる音を聞いたことはないけれど、もしそんな音が聞けたとしたら、きっと小学校時代の社会の授業で私はその音を聞いただろう。
白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき
知っての通り、これは松平定信による寛政の改革の厳しさを受け、腐敗で濁れど華やかであった田沼意次の時代を懐かしむ有名な狂歌だ。純粋無垢故に、時に正義を断行する危うさを持つ子供にとって、腐敗は悪で清廉潔白は正義だった。悪と正義であれば、正義は執行されて然るべきだとさえ考えていた。
しかしこの歌を授業で知り、「正義」が遂行されているからと言って、人は生きやすい訳ではないことにはたと気付いた。新たな視点。まさに目から鱗の瞬間である。
今回感想を書いていく本で取り扱われる男娼「陰間」は、吉宗、定信、忠邦と続く幕政改革の犠牲となった文化である。陰間が廃れた理由はこれらの改革だけではないが、その一因であることは間違いない。学校では教えてくれない、日本の歴史である。
感想
本書はタイトルの通り、江戸時代における男娼と男色の歴史を扱っている。中でも主に扱われているのは舞台役者兼男娼であった「陰間」について。この名前は、歌舞伎で舞台に立てない修行中の身のことを「陰間」と呼んでいたことに由来する。
長い江戸時代のこと、男娼を指す言葉は幾たびかの変遷を経たようだが、基本的に歌舞伎由来だというのが面白い。そして、当初は舞台に上がらない役者見習いの担っていた春をひさぐ仕事を、舞台に上がるようなスターも兼ね始めた。
陰間の主な年齢は十代初めから後半まで。面白いのは、彼らを利用するのは一部の同性愛者だったわけではなく、妻帯者などのバイセクシャルも含まれていたということ。そもそも、当時の男性たちは女色と男色を両立させていたらしい。
実際本書を読む限りでは、江戸の時代、人々の性的志向は随分と開かれていたことが伺える。今では信じられないが、当時は男性による同性間交友は極めてポピュラーなものだったようだ。もちろん、同性間の交友に否定的な意見もあったようだが、人類みな両刀とばかりに男性間の同性愛が広まっていたのは確からしい。
そう考えると、私たちが目にしている時代劇上の江戸の世は、随分と「現代的」に脚色されているのかも知れない。なお学校でも習う十返舎一九『東海道中膝栗毛』の主人公・喜多八は、弥次郎兵衛と関係を持つ陰間だったというのだから驚きだ。
もちろん男娼故に、異性愛者である女性客(主に後家さん)も陰間を利用した。夫婦愛のアクセントとして陰間を雇い、三人で交わるなんてこともあったらしい。
江戸時代の初頭から、数々の制限や規制を乗り越え続いてきた陰間の歴史。興味深いのは、このように広く許容されていた同性愛の文化が明治になると廃れ、次第にタブーと化してしまったこと。
もちろん、先にも書いた幕政改革による影響も大きかったのだろうが、直接の原因は本書でも触れられている通り、西欧文化の流入によるものだろう。知っての通り、少なくとも当時のキリスト教文化は、同性愛を否定していた。
長年根付いていた同性愛が廃れ、短期間で忌避されるものへと変わってしまう。日本のオタク文化などを見ると、諸外国に比べて日本は同性愛への下地がある国だとは思うのだけど、このエピソードからは、文化侵略の強さを感じざるを得ない。
また、陰間を中心とする男色の歴史だけでなく、これらの周辺知識も中々に面白い。当時の男性間における性技のテクニック、陰間の数々の苦労、江戸時代のアダルトグッズなど、下世話な意味で興味をそそられる内容も多く、純粋に読んでいて楽しい。
そして口絵に掲載されたカラーの資料を始め、本文にも春画を始めとする数々の資料が掲載されており、当時の風俗が伺えてとても面白い。巻末には参考文献もしっかりとあるので、ここをとっかりにこの分野の探索に出かけられるのも嬉しいポイントだ。
おわりに
個人的には、日本において男色文化が芽生えた原因などの考察が読めればと思い手に取ったのだが、その手の需要は満たせずとも面白い一冊だった。
そもそも、古代ギリシアにおける少年愛・同性愛を考えれば、キリスト教の存在が「異質」なだけで、人間の本質的な部分には同性愛的な性質も多分にあるのかも知れない。
と、素人考えをメモしたところで今回はこの辺で。2024年11月現在、Kindle Unlimitedにも入っているので興味のある方は是非是非。
最後に、日本人(?)のオタク気質を感じたエピソードとして、陰間を模した人形や彼らの名前入りの楊枝が売られていたという話をメモとして残しておきたいと思う。ご先祖様から現在のオタク文化・推し活文化に通ずるものを感じ、思わず笑ってしまった。
▶江戸文化から見る 男娼と男色の歴史
▶監修:安藤優一郎
▶著者:水野大樹
▶カバーイラスト:紗久楽さわ
▶カバーデザイン:松浦竜矢
▶発行所:カンゼン
▶発行日:2019年9月2日初版発行