たぶん個人的な詩情

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【映画感想】『メガロポリス』――変化、停滞、デマゴーグの先に。コッポラの描く未来に一人の映画人の人生を見る。

はじめに

先日、フランシス・フォード・コッポラの『メガロポリス』を観てきた。配給されるかすらも危ぶまれていたこの映画、配給が決定した時は見逃さないようすぐに行こうと思っていたのに、気付けば上映している映画館も残り少なくなってしまった。

今回観に行った新宿ピカデリーも、数少ない上映館の内のひとつ。とは言え、上映開始時間は21時過ぎ。終了時間は日付変更前。

昼間でないだけ平日仕事の社会人に優しいと言えるが、観には行けても終電を逃す。ただ他の映画館だと時間帯的に厳しいこともあり、背に腹は代えられず、今回は金曜の仕事終わりに映画を観て、カプセルホテルに泊まって帰って来た。

これまで映画を観るためにそんなことをしたことはなかったのだけど、この映画については後悔したくなかったし、それだけした価値はあると思う。

始めに断っておくと、私は決してこの映画を礼賛するつもりはない。世間の批評家が言っていることももっともで、駄作だとする向きも分かる。少なくとも、商業的には完全な失敗作だ。

ただ、それは一面的な評価に過ぎないと私は思う。

少なくともこの映画は、フランシス・フォード・コッポラという一人の巨匠の記念碑であり、彼がすべてを詰め込み、彼のすべてが詰め込まれた映画なのだ。コッポラと言う存在が映画史に残した功績を考えれば、それだけで観る価値がある。

そして、この映画は一つの体験として観る者に興奮を呼び込む。

以下、私はこの映画の感想を書いて行く。思うがままに、書いて行く。正直言って誤解もあるだろうし、思い違いもあるだろう。ただこれは解説でも批評でもない。好きにこの場を使っていきたいと思う。

あらすじ

21世紀アメリカ共和国の大都市ニューローマでは、富裕層と貧困層の格差が社会問題化していた。市の都市計画局局長を務める天才建築家カエサル・カティリナは、新都市メガロポリスの開発を推進する。だが、財政難の中で利権に固執する市長・キケロはカジノ建設を計画し、カエサルと真正面から対立する。また一族の後継を目論むクローディオの策謀にも巻き込まれ、カエサルは絶体絶命の危機に直面するが――。


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感想

宗教的な拒絶、あるいはわかり辛さについて

この映画は前評判に違わず至極分かり辛い。少なくとも、一回観ただけでは整理すら追い付かず、複数回観たところで私はその一端も理解することはできないだろう。

それもそのはず、私個人の理解力の低さを抜きにしても、この映画を作るにおいて、コッポラ自身が恐らく観客に歩み寄ろうとしてはいないのだ。理解してもらおうという努力を、この映画は放棄している。

そもそも、コミュニケーションの本質とは、相手に意図が伝わるようにお互いが歩み寄ることだと思う。であれば、この映画において双方向のコミュニケーションは成立していない。

あるとすれば、それはコッポラの叫びに耳を澄ませる私たち観客が、何とかその意味を理解しようと試みる解読作業だ。この感覚を数年前にも感じた覚えがあった。

そう、本作は宮崎駿の『君たちはどう生きるか』に似ているのだ。


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真意は不明だが、これらの作品から遺作としての切実さを感じてしまうのは、二人の年齢を考えれば無理からぬことだろう。誰も彼も、イーストウッドのように映画を作り続けることはできない。

分かりやすさを捨て、彼らは希釈せずに己のイメージをスクリーンに描き出した。『君たちはどう生きるか』の時点で宮崎駿監督の意志を感じたが、コッポラはその上を行く。

分かりやすさを追求すれば衝撃は薄れる。一字一句注釈の加えられた詩は、例え分かりやすくとも読み手の心を掴まない。だから作り手は明瞭性と複雑性をトレードオフしながら作品を創り上げる。

この映画から私は宗教性を感じたのだが、それはこの映画が非常に個人的であるからに他ならない。例えば、同監督の『ゴッド・ファーザー』や『地獄の黙示録』は、叙事詩であり神話であった。

神話は普遍的な要素から成るのに対し、宗教は極めて個人的な要素からも成立する。もちろん、どこか安っぽく見える映像の数々から、宗教団体が作っている妙な安っぽい映像が頭に浮かんだことも、この映画が宗教的だと感じた理由なのは間違いない。

なお、下ネタを得意とする男女お笑いコンビ、ニッキューナナの下記のネタは別に宗教と関係ないのだが、映像の奔放さと理解の追いつかない内容との類似から、鑑賞中にこの動画が頭を過ったことをここで告白しておく。


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また、ついでだから書いておくと、本作を映像美という観点から評価する感想も見受けるのだが、個人的に本作の映像の出来は良くないと思っている。

もちろん、流石はコッポラと思わせるカットは多い。一大スペクタクルと言って良い壮大さがこの映画にはあるし、人を撮らせれば未だに最高級のものを見せてくれる。ただ如何せん、CGがあまりに安っぽいのだ。

現実との意図的な不和を起こすためだとしても、これは如何なものかと思ってしまうほどに浮いている。役者を中心に撮っている時と、CGメインの時の映像の説得力に差があり過ぎるのだ。

ただ、そのことをコッポラが理解していない訳もない。意図は不明だが、この統一感のなさも含めて彼の見せたい映像なのだろう。資金繰りの失敗ではないことを祈る。

と、理由はさておき、統一感と言えば、この映画が分かり辛い要因として、脚本の継ぎ接ぎ感が影響しているのではないかと思ったりもする。聞くところによると、本作はその構想段階から度々脚本が書き換えられてきたらしい。

40年もの準備期間のために、あれもこれもとすべてを反映し詰め込もうとしてしまった結果なのか、はたまたこれも巨匠の思惑通りなのか。

架空のアメリカと現実のアメリ

さて、ここまで苦言ばかりを述べてきたが、何も私はこの映画の欠点ばかりをあげつらいたいわけではない。この映画には、観る者を引き込み揺さぶる力が確かにある。

そして、理解が及ばないながらも、理解できそうな箇所は確かにあった。

まず私の目を惹いたのは、富裕層と貧困層の明確な対比であった。ある意味この違いが私たちの住む世界と結節点となっているのだと思う。

片や現代とクラシカルな風俗が混じり合ったニューローマ・上流階級の世界。片や現実のニューヨークを思わせる、貧困層の住む裏路地。前者では現実とは乖離したファンタジックで非現実的な映像がこれでもかと使われるのに対して、後者では地に足の着いたみすぼらしい現実が描かれる。

二つの世界をオーバーラップさせることで、フィクション(あるいは並行世界のアメリカ)と、現実のアメリカを結びつけようとする意図は、例えば舞台のアメリカが未来ではなく二十一世紀であること、カエサルの母親の口から語られる「超弦理論」などの単語から察せられる。

そして、これが良くも悪くもこの映画の「メッセージ性」に繋がってくるわけだ。

変化を拒むキケロも失脚し、ポピュリズムを推し進めたクローディオも化けの皮が剥がれて終わりを迎える。なお、逆さ吊りにされる彼の姿からは、同じく大衆を味方につけ非業の死を迎えたムッソリーニの死後の扱いを連想してしまった。

そしてライバル二人が退いた後、最終的には「変化」を信奉するカエサルの行動によって二層のアメリカは統合され、明るい未来(結末)へと至る。

これは暗く先の見えない現実に対して、コッポラなりの叱咤か激励か。未来へ向かうにあたって重要視されるのは、創造性と時だとされている。前者はともかく、正直言って後者についてはよく分かっていないのだが、監督の切実さだけは伝わって来た。

スクリーンに映される、一人の映画人の履歴書

読解を半ば諦めたところで、最後にもう一つだけ触れておきたいことがある。それはこの映画ではコッポラに内在化した多様な芸術が、コラージュのようにスクリーンに投影されている点である。

例えば、シェイクスピアマルクス・アウレリウスなどの著作家の引用。古き良き映画を彷彿とさせる映像の数々。クローディオとワオの二人が協力関係を結ぶ前、彼と取り巻き3人を映すショットは、キューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』らしい洒脱さといかがわしさが描かれていたと思う。

なお、これら芸術の引用と模倣のコラージュは、手放しに褒められるものでは決してない。本人の中では咀嚼しきれているのかもしれないが、コッポラではない観客からすれば諒解し切れない唐突さが多い。多用される引用などは特に。

ただ、これらすべてがフランシス・フォード・コッポラと言う一人の映画人の履歴書・経歴書だと思えば、それだけで価値があると思えてしまう。そして、コッポラが何に影響を受け、最後に何をしようとしたのか考える素材が提供されただけでも、ファンとしてはありがたさを感じてしまうのだ。

おわりに

思えば、私が人生で観てきたコッポラの映画は3本。『地獄の黙示録』と『ゴッド・ファーザー』、そして『メガロポリス』。これらはすべて、新宿の映画館で観てきた。

bine-tsu.com

3本しか観ていないのに信者のようになってしまっていることを恥じるべきか、あるいは3本で一人の人間を信者にしてしまうコッポラを畏れるべきか。

その他の映画を観た上で、信仰を続けるかあるいは棄教するかの判断は下したい。なおコッポラはこの映画の着想を、共和制ローマで起きたカティリーナの陰謀に関する本を読んで思いついたらしい。

ja.wikipedia.org

何となく気になり、岩波文庫版が出た際に買って積んでいたこの本。この映画をきっかけに積読を消化し、この映画への理解を少しでも深めていきたいと思う。

また、コッポラの理解という点では、フィルムアート社から翻訳が出ている『フランシス・フォード・コッポラ、映画を語る』も思わず書店で見かけ買ってしまった。

もちろん、まだ観ていない映画もたくさんある。今年も既に半分が過ぎたが、残りの半年はコッポラ漬けにしていこうと決意表明をしたところで、今回はこの辺で。

ではまた。


メガロポリス / Megalopolis (2024 / アメリカ)
▶監督:フランシス・フォード・コッポラ
▶脚本:フランシス・フォード・コッポラ
▶製作:フランシス・フォード・コッポラ、フレッド・ルース、バリー・ハーシュ、マイケル・ベダーマン
▶作曲:オスバルド・ゴリホフ
▶撮影監督:ミハイ・マライメア・Jr、ASC
▶編集:キャム・マクラクリン、CCE、グレン·スキャントルベリー、ACE
▶出演者
カエサル・カティリナ:アダム・ドライバー
キケロ市長:ジャンカルロ・エスポジート
ジュリア・キケロ:ナタリー・エマニュエル
ワオ・プラチナム:オーブリー・ブラザ
クローディオ・ブルケル:シャイア・ラブーフ
ハミルトン・クラッスス3世:ジョン・ヴォイト
フンディ・ロマイーヌ:ローレンス・フィッシュバーン