はじめに
押井守監督によるOVA、『天使のたまご』を劇場で観てきた。行ったのは有楽町駅の近くにある丸の内ピカデリー。作品自体初めてだったし、思えばドルビーシネマで映画を観るのも初めてだった。
もっと言えば、押井守監督作品をまともに観るのも初めてだった。
だから、この感想はまっさらな状態で『天使のたまご』にぶつかってしまった人間の感想である。前情報も入れなければ、観終わった後もまだ情報を入れていない。
折角買ったパンフも読まず、Wikipediaの誘惑も抑え、エゴサもしていない。このブログを書き終えたら、色々と読み漁るつもりだが、まずはこのまっさらな状態でこの作品について語っていきたいのだ。
世にある『天使のたまご』の考察のように、インタビュー等の参照もしていなければ他作品との比較もしていない。しかしそれは逆に、純粋な映像体験をした者からしか生み出せない感想になっているのではと信じ込み、以下感想を書いて行く。
ちなみに、件のパンフレットは多少値は張るのだが、非常に丁寧な製本がされておりそれだけで価格分の価値がある一冊である。開きやすい作りになっているのも嬉しい。私が言うまでもないと思うが、ぜひ劇場で購入して手に取って欲しい。
感想
もちろん名前だけは知っていた。押井守と天野喜孝によるコラボレーション。徳間書店による企画で、OVAで発売された作品だと言うことも知っていた。
しかし、前情報として知っていたのはそれくらい。劇場公開を知った際に軽くあらすじを読み、ノアの方舟が陸地を見つけられなかった世界線が舞台だと知った。
知っていたのはたったそれだけ。それ以外の情報はなく、いざ体験した『天使のたまご』は、凄まじいものであった。面白いかすらも分からない。とは言うものの、この体験を否定する気持ちは毛ほども起きなかった。
好きか嫌いかで言えば、断然好きなのだ。きっとこの作品は私にとって忘れがたいものになるだろう、という確信がある。
忘れがたい体験となった理由はいくつもある。ドルビーシネマの音響の大きさにも驚いた。映像のスケールにも、度肝を抜かれた。
だが何と言っても圧倒されたのは、ストーリーの難解さである。もしこの映画にストーリーがあればの話だが、正直言って意味が分からなかった。
絵画を見て「面白い」と感じることはそうそうない。興味深いと感じることはもちろんあれど、絵画から「ストーリー」や「脚本」に対する「面白さ」はそうそう感じない。
この『天使のたまご』に対して「面白い」と言えないのはそういう理由なのだと思う。芸術を測る尺度として、「面白さ」は不適切なのだ。
先にも書いた通り、前情報は入れていない。折角なら、この純粋な状態で感想を書いて行きたい。観た上で感じたちょっとした解釈にも踏み込んでいく。そうでもしないと感想など書けない作品なのだから。
気持ちの悪い少女、信頼できない少年
色々と語りたい部分はあるが、まずはこの映画を観ていて感じたことについて語っていきたい。それは、少女に対する「気持ち悪さ」だ。気味が悪いと言っても良いが、それは少女の内面に対する感情であって、気持ち悪いのは少女の外面である。
少女は、ことあるごとに服の下に「たまご」(以下「卵」と表記)をしまう。これがすこぶる気持ち悪い。小さな体躯には似つかわしくない膨らんだ腹部。妊婦を思わせるこのシルエットは、作品全体を通して少女を異質なものにしている。
この作品において、少女は決して清らかで可愛らしい存在ではない。もちろん、少年を前にして時折見せる愛らしさは確かに存在するし、清らかで可愛らしい面も我々に見せてくれる。
しかし同時に、この少女は老獪さも垣間見せる。信用のおけない少年を見やる時などの表情は、卑しく醜い。もし芥川の「羅生門」をアニメ化したら、きっと老婆はこんな表情で下人を伺い覗き見るのではないかとさえ思う。
そして、この違和感は少女だけのものではない。対置される少年にもまた「問題」があるのだ。
彼は徹頭徹尾、信頼できない。徐々に心を開いていく少女に対して、少年は最後まで感情を見せず、ただ不穏な言葉を口にする。少女の問いには答えない。ただ一言「卵には何もしないよ」と答えればいいのに。
少年から漂う剣呑な雰囲気と、少女の卵への執着を見せられる観客は、二人の関係の崩壊を予感する。この関係がいつ崩れるのか。その際に何が起こるのか。
あってないような脚本であっても、最後まで観客がこの映画に釘付けになる理由は、実のところこの作品が一級の「サスペンス」であるからなのだ。
天使のたまごとは何なのか
では、彼らの間に存在し彼らを繋ぐ「たまご」とは何なのか。あの卵は、他の物でも代替可能なマクガフィンに過ぎなかったのか。
もちろん、そんなことはない。あれは「卵」でなくてはならなかった。なぜなら、卵は中に何かが入っていて、それがいつか孵るかもしれない存在だからだ。卵と言う存在はそれが卵である時点で、可能性と期待を内包している。
それでは、少女が大切にする天使の卵とは何だったのか、と言う部分に恐れ多くも踏み込んでいきたい。まず、あの世界における卵は、まさしく「天使」の卵であったのだろう。理由は不明だが、孵ることなく死んでしまったいくつもの卵の内の一つだ。
では、そんな卵を少年は何故叩き割ったのか。「割ってみないと分からない」。その言葉通り、彼は中身を確認したかった。もっと言えば、中に天使が眠っているか確認したかったのではないだろうか。
その理由は何か。彼は、あの荒廃した世界を終わらせたかったのではないかと私は考えている。あの荒廃した世界は「天使=鳥」の見ている夢であり、天使が目を覚まさない限り、悪夢は終わらない。だから彼は旅をして卵を割り続ける。もしかすると、既に彼において目的や使命は失われてしまっているのかもしれないが。
そして、少女が中身の存在しなかった卵に「期待」し続けていたこと。これが脚本上の卵の意味に繋がってくる。メタファーと言う言葉は恐ろしくて使いたくないが、この作品を観た以上は、あの卵が何を示していたのかを考える必要がある。
卵の中に入っていて欲しかったもの。それは救いや救済であったはずだ。鳥と天使をダブらせ、生物学的な存在に宗教的なモチーフを重ねることで、現実とメタファーの橋渡しをしているのだろう。
そして言うまでもなく天使は神の使いである。ノアの方舟の伝説や宗教的な構造物、宗教音楽めいたサウンドなどを用いることで、「神」降臨の準備は整っている。
だがしかし、少女の期待した天使はそこにはなく、神の到来もない。あの物語を観ていて連想したのは、ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』であったわけだが、神のいない世界、あるいは神を待ち続けるしかない世界が同じくここにある。
神を待ち続けることの虚しさ。神のいない世界で老人が神を待ち続けるのと、年端も行かない少女が神を待ち続けるのでは、どちらがグロテスクで残酷なことなのか。
少年による卵の破壊は、一種の救済であったのかも知れない。十字架を携えた少年は、キリストよろしく、旅をしながら福音をもたらしている。
もしそうであるなら、卵と言う夢から覚めた少女が水の中で見た自分の姿は、夢ではない世界の少女の姿だったのだろうか。
おわりに
と、好き放題感想を書いてみた。何とかまとまったものにしてみたかったが、読み返すのも恐ろしいので、勢いのままにこちらで記事は完成としたい。
自分では処理しきれなかった部分も正直たくさんある。魚たちは何を意味するのか。溺死した少女の息は、なぜ卵となったのか。空に浮かぶ機械と、そこに象られた人々は何だったのか。
まっさらな状態に保つことはこれで終わりとし、まずはパンフレットに目を通し、その後はネットの感想や考察、監督自身の言葉にも目を通していきたい。そして情報を集めた上で、少なくともあと一回くらいは映画館へ観に行きたいと思う。
