たぶん個人的な詩情

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【映画感想】『アギーレ/神の怒り』――エル・ドラドを目指したコンキスタドールの愚行とその結末。『地獄の黙示録』との対比を添えて。

アギーレ/神の怒り(字幕版)

はじめに

コンゴ川の奥地にて、象牙交易を牛耳るクルツは死んだ。現地の人々に神と崇められた男は、「地獄だ!地獄だ!」との言葉を残し、息絶えた。

知っての通り、これはコンラッドの『闇の奥』の顛末だ。そして、象牙商クルツを軍人にジョブチェンジし、舞台をコンゴからベトナムに移したのが、こちらもご存じ、フランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』である。

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こちらの映画は、私の中のベスト・オブ・ベストと言っても良い作品だ。肌に合うと言おうか、観ていると非常にしっくり来る。特にファイナル・カットの編集は、特別完全版の冗長な部分がなくなり、まさに終着点と言える出来栄えとなっていた。

とは言え、好きだからと言って、映画について詳細に調べる、といったオタク的な追い方はしたことがなかった。そのため、『地獄の黙示録』に先立つ七年前、同じくジャングルとそこに流れる川を舞台にした作品があることを知らなかった。

今回感想を書いていく『アギーレ/神の怒り』(以下『アギーレ』)こそ、『地獄の黙示録』に先立って公開され、コッポラが影響を受けたことを公言している映画である。

そんな関係性があったと知ったのは、観終わった後のこと。あまりにも酷似しているために調べてみて、コッポラが影響を受けていたことを知った。

今回は、そんな大好きな『地獄の黙示録』との違いを自分なりに考えた上で、『アギーレ』について好き勝手に書いていきたい。

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感想

両者の違い。それは「作りものか否か」という一点に尽きるように私は思う。「作りもの」という表現に否定的な意味合いを感じるのであれば、創作と言い換えても良い。

ここにコッポラとヘルツォーク、二人の作家性が影響しているのだろう。

コッポラの『地獄』は、芸術としての美しさと文学らしい難しさが、映画(フィクション)という形で形になっている。いくら映像がもっともらしく、リアリティがあったとしても、あの映画を観てドキュメンタリーのようだと評する人間はきっといない。

窓からサイゴンの町を眺めるウィラードや、クラシックを流しながらベトコンを駆逐する騎兵隊、神のように現地人を従え、君臨する狂気の大佐の姿。

すべてがフィクショナルで、だからこそ美しく格好良い。まさに「画」になる。そういうカットを、コッポラは作るのが上手い。彼にとって、映画とはきっとそのためのものなのだろう。

対して、ヘルツォークの撮る『アギーレ』は、どこまで行っても現実的、ノンフィクション的だ。夢を追い求める男の姿が、記録映像的な形で捉えられている。

きっと、当時のコンキスタドールに密着してドキュメンタリーを撮ろうとすれば、こんな映像になったことだろうと思わされる映像の数々に、作りものめいたカットはほとんどない。

だからこそ、首を刎ねられる「裏切り者」のカットは、非現実的故に一層、生々しく現実的な重みを持った映像として観客の目には映る。

だがそれは、起伏なく淡々と進む映画の展開と無関係ではない。

動きが少ないからこそ、首を刎ねる一幕が光る。映画終盤、娘の死を伴う襲撃すら静的だ。それくらい『アギーレ』には動きがない。劇的な戦闘もなければ、死の描き方にも激しさがないのだ。

両者は共に、観ていると疲れる映画である。好きな映画ではあるが、毎日『地獄の黙示録』を観るのは辛いものがあるだろう。だが『アギーレ』はその比ではないはずだ。

疲労、諦観、焦燥感。そして絶望。一時間半ほどの映画の中に負の感情が詰まり、画面越しに漂ってくる。画面の中の人々の感情と、観客の感情が繋がる。

これは撮影の妙でもあるし、起伏のない脚本のためでもある。それに加え、この疲労感は登場人物を超え、演者自身から滲み出て来ている気もする。

現実的でドキュメンタリー的。カメラに収められた「当たり前」の映像の数々は、ともすると流し見てしまいそうになるが、その撮影の難しさは、きっと並大抵のことではなかったはずだ。

冒頭から衝撃の連続である。アンデス山脈の悪路を、決して動きやすくはないであろう装備で進む男たち。そして、アマゾン川を筏で下る姿。

自然にカメラに収められてはいるが、どこから撮っているのか、撮影の機材をどう運搬したのか、素人の自分には想像だにできない。

そして、現実のように当時の姿を撮ることで、一層このエル・ドラド探索行の馬鹿馬鹿しさも浮き彫りになる。お屋敷で過ごしているかと見紛う服装で、籠に入れられた女性陣たちは、見るからに現実的ではない。

だが、ここにも面白さがあると思うし、ここから様々な読み解き方が広がっていく気もする。

この現実を直視していない、蛮行とも言える行軍。そして、背が低く、独特な立ち居振る舞いをし、甲高い特徴的な声をしたアギーレの姿に、第三帝国の姿を重ね合わせるのは曲解だろうか。

また、布教という名目で自らの思想を押し付ける愚行。ここには、ナチズムを超えて広くオリエンタリズムへの批判が込められているのかも知れない。

他方、本作の女性の描き方について、フェミニズム的な観点から読み解くこともできるだろう。虜囚のように、物のように、連れて行かれるがままに進む女たち。そして、愛人・ウルスアの死を受けて、最後自ら闇の奥に消えていくイネスの姿は印象的だ。

人間は、意味のないものを許すことができない生き物だ。だからこそ、劇的に何かが起こる訳ではない、静かでメッセージ性が抑えられたこの映画に、意味を付与したがってしまうのだろう。

コッポラの『地獄の黙示録』も文学的であったが、あちらは叙事詩のように壮大で、カット一つひとつに作り手の意識が感じられた。対して『アギーレ』は、文学で表すのなら自然主義文学なのだと思う。カメラを配置し、ただあるがままを写し取る。

ここまでの文章に意味などなく、ただの破綻でしかない戯言だったとしても、この両作品が名作であることは間違いない。

おわりに

思いつくままに、感想を書き連ねてみた。いつかまたこの映画を観返したその時に、過去の自分がどんなことを感じたのか、記録に残したいと思いここまで書いてみた。

将来観返した時、私はこの映画から何を汲み取るのか。あるいは、何かを新たに汲み取ることができるのか。それは分からないが、また観た時に新しい発見ができるよう、精進したいと思ったところで、今回はこの辺で。では。


▶アギーレ/神の怒り / Aguirre, der Zorn Gottes (1972 / 西ドイツ)
▶監督:ヴェルナー・ヘルツォーク
▶脚本:ヴェルナー・ヘルツォーク
▶製作:ヴェルナー・ヘルツォーク、ハンス・プレッシャー
▶音楽:ポポル・ヴー
▶撮影:トーマス・マウホ
▶編集:ベアーテ・マインカ=イェリングハウス
▶出演者
ロペ・デ・アギーレ:クラウス・キンスキー
イネス・デ・アティエンサ:エレナ・ロホ
ガスパール・デ・カルバハル:デル・ネグロ
ペドロ・デ・ウルスア:ルイ・ゲーハ
フェルナンド・デ・グスマン:ペーター・ベルリング
フローレス:セシリア・リヴェーラ