はじめに
父の影響で黒澤明の映画を観て来たことは、折に触れてこのブログでも書いてきた。黒澤映画は、私が唯一観て来た日本映画だと言っても良い。とは言え、観て来たとは言っても作品の偏りは大いにあり、父お気に入りの『用心棒』などは少なく見積もっても五回は観ているが、観たことのない作品も数多くある。
実家にあった黒澤映画のDVDボックスに、ほとんどすべての作品が収められていたのにだ。観ようと思えばいつでも観ることができた。ただ、観て来なかった。
理由は二つある。
一つは、自室に一人でDVDを観る環境がなかったこと。幸いにも子供の頃に自室を与えられてはいたが、生憎テレビはなかった。ゲームをするにしろ映画を観るにしろ、リビングのテレビを使うしかない時代がとても長かったのだ。
だから私の遊んできたゲームは携帯ゲーム機に偏るのだが、それはさておき、多くの母親の例に漏れず、ソファに寝転がりながらテレビを見るのが趣味だった母親と争ってまで、テレビを使いたいと申告する気にはなれなかった。
また、ただでさえ親にどんなものに興味を持っているか知られる事が恥ずかしい子供の時分に、父が好きなものを観ている事を親に知られるなんて、持っての他だった。
だから、私の観て来た黒澤映画は一家団欒、父親がリビングで観ているのに付き合って観た映画に限られる。『用心棒』『天国と地獄』『野良犬』『蜘蛛巣城』『虎の尾を踏む男達』、そして『隠し砦の三悪人』*1。しかも、『隠し砦の三悪人』に限っては観たのがコロナ禍のことなので、かなり遅い。
そんな偏った黒澤遍歴を、当の元凶である父に話してみたところ、苦笑交じりに「『七人の侍』は観ないといけない」と言われ、一緒に観た。
面白かった。名前だけは知っている登場人物たち。そして名台詞。これが『七人の侍』かと、思わず唸ってしまったほどに面白かった。
上映時間は長く、父が家族団らんの時間に流さなかったのも分かる。そして「観ないといけない」と言っていた理由も分かった。
今回は、今更『七人の侍』を観た男が、感じたままに感想を書いていくチラシの裏度の高い記事となる予定となっている。優しい気持ちで読んでいただけると嬉しい。
感想
語るまでもない最高のエンターテインメント
まず、この映画は最高のエンターテインメントである。七十年(!)経った今見てもアクションは見劣りせず、娯楽として大事な要素である笑いや人間模様も過不足なく描かれている。そして何と言っても、台詞の聞き取り辛さを除けば、分かりやすいのが本作の特徴だ。
分かりやすさ。言うならば文学性の少なさが、この映画をエンタメ、つまりは大衆娯楽足らしめている。それが最も顕著に出ているのは映画のラスト、村人が田植えに勤しむシーンだろう。
四人の仲間を失い気を落とす三人の侍を他所に、農民は田植えの歌を歌う。志村喬演じる島田勘兵衛は言う。「今度もまた負け戦だったな。勝ったのはあの百姓たちだ」と。
本来、百姓と侍の対比だけで伝わるところを台詞として形にする。どんな人にも分かりやすく。それこそがエンタメの醍醐味だ。分かり辛いエンタメなどエンタメではない。
だが、この映画は一度見て「あー、面白かった」で終わるそんじょそこらのエンタメでもない。噛めば噛むほど味がする深みがこの映画にはあるのだ。特に、登場人物たちの魅力は一度だけでは到底味わいつくせない。
噛めば噛むほど味わい深い登場人物
実は、一回観終わった後にもう一度間を置かず見たのだが、記憶に新しい状態で観ても味がする。いやむしろ、噛めば噛むほど魅力に気付ける深さがこの映画にはある。
そんな深みの要素の一つが、魅力的な登場人物たちの存在だろう。
まず志村喬演じる島田勘兵衛。私の少ない黒澤遍歴でも当然彼のことは知っていたわけだが、改めて素晴らしい役者だと感じ入った。勘兵衛からは人徳が滲み出ている。五郎兵衛でなくとも彼に惹かれ、共に行くことを選んでしまうだろう。
宮口精二演じる久蔵もまた、目を惹く登場人物の一人だ。特に、アクション映画としてこの映画を観た時、語らずにはいられないのは彼についてだろう。まず顔見せとなる一騎打ちの立ち合い。強さと凄みがあの短くも濃厚な時間の中に描かれている。
また村を守る戦いの中、自棄になる利吉に久蔵は「死のうとしている」と言って彼の蛮行を止めるわけだが、そう言う彼こそ、死と隣り合わせの瞬間を求めているように見える。それが立ち居振る舞いから伝わってくるからこそ、凄味に繋がるのだ。死に際に射手の位置を示して倒れ伏すのも彼らしい。
そして三船敏郎扮する菊千代。彼こそがこの映画の肝であるのは言うまでもない。農民出身でありながら、侍に憧れる子供のような青年。彼の存在が、一筋縄ではいかない村と侍を一致団結させる。用意された台詞と、三船の演技がとても良い。
どこも素晴らしいが、落ち武者狩りをしていた村人に対して憤る侍たちに、農民について説く言葉の強さと演技の凄味。そして孤児となった子供を抱いて叫ぶ菊千代。「こいつは俺だ。俺もこの通りだったんだ!」。私が言うまでもないが、やはり映画史に残るワンシーンだろう。
もちろん、その他の登場人物たちも見れば見るほど魅力が光る人物ばかりだ。そして侍たちだけでなく、村人たちもまた映画が進むにつれて深みを増していく。
妻を野武士に奪われた利吉や、何かと不和の引き金を引く万造。与平の死に際の言葉などは、思い出すだけで悲しみがこみ上げるものがある。また、火事に気付き笑みを浮かべる利吉の妻の凄味は、短いながらとても印象深い。
百姓のしたたかさ。個と集団の勝ち負けについて
そして、これら百姓のしたたかさこそが、この映画の一つの見所であることは間違いない。野武士に「生かされている」彼らの姿はまさしく「被害者」であり庇護の対象なのだが、彼らも彼らでしたたかに生き、時に加害者となっている。
菊千代の語る「百姓論」は、まさにその解説だ。この辺りも分かりやすさを反映した台詞回しとなっているわけだが、役者の演技もあって、素晴らしく真に迫り、圧倒されるシーンとなっている。
さて、そんな農民と侍が共に野武士と戦い村を守るというのがこの映画の大筋だが、彼らはやはり同じではない。同じ結果を目指して協力し、同じ結末を迎えたはずなのに、片や負け戦、片や勝ち戦となってしまった。
歌を歌い明るく田植えをする彼らの姿に、失った人々を悼む様子はない。もちろん死を悼む気持ちがないわけではないだろうが、彼らの共同体は、個を失おうが集団として存続し次代が芽吹いていく。
対して、侍たちは違う。彼らはかつて一国一城の主を願った侍であり、今や群れることもない浪人だ。彼らは個で完結している。流動的に存続する村に対して、七人の侍は誰が欠けても変わりのいない、かけがえのない集団だったのだ。
これを個人主義の敗北とみるのは強引かも知れないが、何はともあれ、私の目に百姓たちの姿は眩しく映る。そこには、ある種の羨ましさがあるのは言うまでもない。
おわりに
思いのままに書こうとした感情を、何とか読める形に押し止め形成した結果、このような感想となった。どこかでも書いたが、素晴らしい作品ほど感想を書くのは難しい。
気持ちのままに書けば、どうしても「アオいいよね」のように多くを語らない感想となってしまう。かと言って、説明を加え始めれば、そこには本来あった熱がなくなってしまう。それと言うのは、名作には名作に特有の分割不可能性とでも言うべきものがあるからではないかと思う。
かのアウグスティヌスが時間について語った時のように、私たちは名作について尋ねられて説明しようとした途端に、名作について語る術を失う。それは、説明と言う分割作業が名作の全体性を損なうからではないだろうか。
と、既に多くの人が語ってきたであろう話を私自身の言葉で語ってこの記事は終わりにしたい。好きな作品への想いや熱量を維持して人を引き付けたまま、論理的に語ると言うのは、私にとって永遠の課題だ。