はじめに
クトゥルフ神話初心者にどの一冊を勧めるか。この問題については読者各人それぞれご意見をお持ちのことだと思います。私自身この問題については長年聞かれてもいないのに考えてきました。
創元推理文庫の『ラヴクラフト全集』は初版の刊行から50年近い月日が経ってなお王道の全集ですし、新潮文庫から刊行され始めた『クトゥルー神話傑作選』は新たなスタンダードになれるだけのポテンシャルを秘めたシリーズだと思っています。南條竹則氏の編訳とあって収録作品は良質なものばかりですし、何より新潮文庫なだけあって入手しやすいのは勧めるうえで嬉しいポイントです。
その他、クトゥルー神話研究家として有名な森瀬繚氏が手掛けた新訳も星海社から出ています。変わり種ですが、創土社から刊行されていた『超訳・ラヴクラフト ライト』なるシリーズも選択肢としてはありかも知れません。
ただこれらはあくまでラヴクラフトの作品であり、クトゥルフ神話自体を広範にカバーしたものではありません*1。そしてクトゥグアやティダロスの猟犬など、有名であれどラヴクラフト由来でない「キャラクター」も数多く存在します。
TRPGやゲーム、アニメなどを通してクトゥルフ神話に興味を持った人の場合、作品自体の面白さを楽しむよりもまず、ミ=ゴやニャル様*2が活躍するところを読みたいのではないでしょうか。あるいは『ネクロノミコン』や『エイボンの書』を読み解いていく登場人物の活躍を読んでみたいのかも知れません。
そう言ったクトゥルフ神話の「キャラクター」や「オブジェクト」への興味関心を満たす目的で神話作品に触れようとする場合、お勧めするシリーズは二つ。一つは国書刊行会から出ている「真ク・リトル・リトル神話大系」シリーズ。そしてもう一つは今回感想を書いて行く青心社の「暗黒神話体系」シリーズとなります。
ともにどれから読んでも問題はないシリーズなので、ネタバレ等気にならないのであれば、興味のある神様が登場する回をネットで調べて読む、と言うのが良いかも知れません。TRPGのKPであれば、次回遊ぶ予定の神格が登場する作品を事前に読んでみると言うのも良いでしょう。
とは言え、収められた作品は正直言って玉石混交。面白みに欠ける巻もあるにはあるため、初っ端から「ハズレ」を引かないためにも、今回は個人的におすすめな一冊として4巻の紹介兼感想を書いて行こうと思います。
と、ここまで偉そうに書いておいて何ですが、実はまだシリーズ全部を読めているわけではなく、4巻にしても最近読んで面白かったので感想を書こうと思っただけなのはここだけの秘密*3。
感想
初心者にこの一冊をお勧めする理由。それは本作の収録作品がどれも面白く、同時に作品の傾向がバラエティに富み読んでいて飽きないこと。これに尽きます。
伝統的な怪奇小説スタイルの作品もあれば、コミカルで御伽噺のような話、SF味のある短編、ファン目線で書かれた楽屋落ちのような作品など、収録作品の傾向は実に多種多様。「キャラクター」や「オブジェクト」と言う点でも有名どころがかなり登場しますし、書き手も大御所ばかりなので安定感があります。クトゥルフ神話作家と言えばこの人、みたいな人しかいないので、これをきっかけに好きな作者を見つけてみるのも面白いかも知れません。また、作品それぞれの長さが短く、読みやすい文量なのも入門に適していると言えるでしょう。
ただしここで注意点を一つ。
本作品集の最後を飾るフリッツ・ライバーの「アーカムそして星の世界へ」は楽屋落ちみたいなものなので、他のラヴクラフト作品*4に親しんでからでないと面白みが分からないかも知れません。また「異次元の影」についてはラヴクラフトの「時間からの影」のリメイクと言っても過言ではなく、新鮮な気持ちで読みたいのなら先に元ネタを読んでおくことをお勧めします。
と、初心者からすれば有難迷惑な厄介オタクからのコメントを差し挟んだところで以下は各短編についてちょっとした感想です。ネタバレはしないようにしていますが、勘の良い方なら気付くかもしれないので感想を読む際はご注意を。
「魔犬」H.P.ラヴクラフト
二人のディレッタントが墓荒らしの報いを受けるお話。全集にて既読だったが、改めて読むと普通に面白くて驚いてしまった。個人的には話の筋以上に、ディレッタント二人が香や音楽、奇抜な収集品で五感を楽しませている様子がまさしくポーやユイスマンスの作品のようで、こうした退廃的な趣味に耽る描写好きとしては読んでいてワクワクしてしまった。
クトゥルフ神話的には『ネクロノミコン』の著者が明らかにされたという点で記念碑的な作品と言える。ちなみに『クトゥルフ神話TRPG』のサプリメント『キーパーコンパニオン』には本作に登場するアミュレットのデータが掲載され、そこでは本品がチョー=チョー人と関連付けられている。
「魔宴」H.P.ラヴクラフト
一族に伝わる祝祭に参加すべく町を訪れた語り手が出くわした悪夢を描いた作品で、ラヴクラフト流のクリスマスストーリーと言えるかも知れない。雪の降り積もる古色蒼然たる街並み、と言うイメージが綺麗で、そこを歩く顔の見えない参列者たちの姿は不気味さを通り越して美しさすら感じてしまう。恐怖小説としても味わい深く、幻想的かつ恐ろしい地下へと下っていった語り手が、先導する老人の仮面の奥を見て恐怖し、逃げた果てに目覚めた病院の立地に狂乱すると言う展開も良い。
作中にて『ネクロノミコン』の引用がなされること、今一つ描写の少ないキングスポートが登場する作品と言う点で神話体系においては重要な作品だろう。またこれは後付けにあるが、作中で描かれるクリーチャーが『クトゥルフ神話TRPG』の基本ルールブックに掲載されているため、基本ルルブだけでシナリオを書こうと思っている人なら読んでおいて損はないかも知れない。
「ウボ・サスラ」C.A.スミス
この本を読もうと思ったきっかけの作品。スミスの作品と言うと幻想的なファンタジーというイメージが強いが、SF的な発想のもとに書かれた作品も少なからずあり、そのどれもが面白い辺り彼の才能の豊かさを感じてしまう。
今回の場合、先祖の肉体に意識を飛ばして時間遡行を行うと言う発想が良いし、彼の試みが叶わない理由も皮肉が効いていて面白い。科学要素はないに等しいが、タイムトラベルもののSF短編集に収められていてもおかしくはないレベルの作品だと思う。
神話要素としてはウボ=サスラの登場作品としての価値は勿論、『エイボンの書』が引用されている点でも読む価値はある。そもそも作品として面白いので読むべき。
「奇形」ロバート・ブロック
久しぶりに再会した友人の心身の変わりようを心配していたら、期せずして恐るべき出来事に遭遇してしまった系のお話。先祖伝来の身体的な特徴を魔女や妖術、使い魔と結び付ける発想は興味深いものの、今のご時世じゃ書けない作品だなあとも思う。超常的なホラーと言うよりかは手塚治虫の『ブラック・ジャック』にありそうな話。
真相や死に際の描写などから明らかに「ダニッチの怪」の影響を感じるが、本作はブロックなりのラヴクラフトへのアンサーなのかも知れない。ただしこちらの青年はウィルバーとは違って良い奴なだけに、このような最期を迎えたことは心が痛む。
神話要素としては『妖蛆の秘密』と『ドール讃歌』、ナイアーラトテップ、シュブ=ニグラス、イグについて軽く触れられているぐらいか。
「風に乗りて歩むもの」オーガスト・ダーレス
謎の失踪事件の真相に近付きながら死を迎えた警官が残した手記と言う形式の作品。奇妙な信仰を持つ村の住人の失踪から一年、村の近くに駐在していた警官の前に突如として降って来た村娘の死体と意識不明の生存者二人、と言う導入がまず良い。また、発見された生存者が冷気に慣れ過ぎたがために暖かさに耐えられないとの描写も面白い。
死に行く生存者の言葉からおぼろげに浮かび上がる人知を越えた世界の片鱗と、知ってしまったがために訪れる語り手の破滅。ホラーとしての臨場感があって読ませる内容だし、個人的に面白い作品だと思う。ただし生贄に選ばれた娘が逃げ出そうとして云々の下りが少し俗っぽい気がしなくもない。後述する「闇に棲みつくもの」でもそうなのだが、生きながらにして連れ回され恐怖を目の当たりにすると、言うのがダーレスの考える恐怖の形なのだろうか。
神話的にはダーレス産の風の神、イタカ初出の作品として有名。ちなみにイタカの創出の際、ダーレスは作中でも度々触れられているブラックウッドの「ウェンディゴ」を参考にしたとのことだがこちらは未読。これを機に読んでみたいと思う。
「七つの呪い」C.A.スミス
お噂はかねがね、と言った感じの作品。スミスお得意のユーモアに満ちた作風で、自信に満ち溢れていた人間の王が神々の間においてはその価値を認められず、たらい回しにされる様子は滑稽で面白い。また神々や蛇人間たちの物言いはコミカルで人間味に溢れていて笑えるし、グロテスクで野性味あふれるヒューペルボリアの世界を垣間見れる冒険小説という側面で読んでも面白い作品。最後のオチも最高。
一歩間違えたらぐちゃぐちゃになりそうな内容を、絶妙なバランス感覚を発揮し見事に描き切った辺りにスミスの力量が伺える。また単調になりがちなホラー短編集において本作は箸休め的な役割を見事に果たしているようにも思う。
神話的にはスミス産の神々や蛇人間、ヒューペルボリアの地理や環境を知る上で重要な作品のように感じる。こちらも面白いのでそんなことは抜きにしても読むべき。
「黒い石」R.E.ハワード
創元推理文庫から出ていた『黒の碑』を読んでいなかったので今回が初読み。本短編集でも一、二を争う程に面白い怪奇小説で、魔女の村を意味するハンガリーの山村、シュトレゴイカバールを舞台に、人を狂わせると言う「黒い石」を調べる「わたし」が、村の過去を垣間見るとともに、そこで行われたオスマン軍による侵攻の真相と、世界の真実を図らずも知ってしまうと言うお話。
歴史的な題材と架空の村の邪教崇拝を絡めてエンタメに仕上げた手腕は見事と言う他なく、語り手が見た儀式の様子はまさに悪夢的で素晴らしいことこのうえない。またトルコ軍による怪物退治は短いながらも活劇感があって良かった。ちなみにこの部分を読んでいる最中既視感を覚えたのだが、ブライアン・ラムレイの「魔物の証明」はもしかするとこの作品から影響を受けているのかも知れない。
神話作品としては、ハワードのクトゥルフものにて度々言及されていた黒い石が登場する作品であるとともに、狂気の詩人ジャスティン・ジョフリが初めて登場した作品でもある。また作中に登場する怪物は後世の人々によりゴル=ゴロスとされ、『クトゥルフ神話TRPG』でもその設定が踏襲されている。
「闇に棲みつくもの」ラヴクラフト&ダーレス
こちらもお噂はかねがね、と言った感じの作品だったのでようやく読めて一安心。曰くありげな湖畔にて起きた教授失踪事件の謎を追う、と言う王道のストーリーはやはり読みやすく、分かりやすい解決が描かれる点や、有名どころの「キャラクター」が登場する点でも初心者に勧めやすい作品だと思う。
立ち入ったものが謎の死と失踪を遂げる森の描き方や、蓄音機で正体不明の音を拾おうと試みていると、失踪したはずの教授からのメッセージが入っていた、と言う展開は個人的に好み。物語の最後、教授(?)の足跡が段々と変化していき、千切れた服の切れ端がその傍に落ちていて……と言う描写も嫌いじゃない。
ただやはりどうにも肌に合わないのは安易な解決方法のためなのか、あるいは「彼」の登場に重みがないからなのか。とは言え「未知なるカダスを」でもそんな感じの役回りではあったし、昨今のイメージからすれば受け入れられやすい作品ではあると思う。証拠の隠滅方法など、何となく「闇に囁くもの」っぽさを感じた。
クトゥルフ神話的にはンガイの森が焼かれた経緯が収められた作品であり、クトゥグアを呼び出す呪文が書かれている他、某神様大活躍の短編としてあまりにも有名。またイタカの仕業らしい変事についての記述もある。
「石像の恐怖」ヘイゼル・ヒールド
洞窟で見つけたと言う精巧な石像の噂を耳にし、失踪した彫刻家の知人を連想した語り手と友人が人探しに村へと赴いて、と言う話。石化の薬剤が『エイボンの書』由来と言うことで本短編集に収められてはいるが神話要素は薄い。マッド・サイエンティストものに位置づけられる作品だと言えるかもしれない。
どれだけラヴクラフトの手が加えられたかは不明だが、彼の作品で女性の活躍(?)が描かれているのはとても珍しいと思うし、彼の作品ではあまり描かれない色恋沙汰が事件のきっかけとなり、悲恋らしいロマンスで締めくくられている点でも面白い。格別面白いと言う訳ではないが、短編集の内の一作としては普通に読める。
ちなみに、単に石化と言えばその名の通りマーク・トウェインに「石化人間」と言う作品がある。また薬剤による石化と言うと、チェンバースにもそんな作品があったように思う。影響関係などはあったのだろうか。
「異次元の影」ラヴクラフト&ダーレス
個人的に本作において一番つまらなかった作品。読めばわかる通りラヴクラフトの「時間からの影」の不完全な焼き直しに過ぎず、作品のスケールが小さくなったことで本来作品が持っていた宇宙的恐怖が薄れてしまっている。
ダーレスによる執拗な旧支配者と旧神の対立構造導入について文句はあまり言わないことにしているが、ラヴクラフトの作品の中でも「時間からの影」は3本の指に入るぐらい好きな作品なので今回ばかりはご容赦を。
ただし「彼ら」について言及されている作品がそう多くはないため、その意味では読む価値があるかも知れない。また不器用に手を動かしながら書類を処分しようとしている成人男性二人と言う絵面はコミカルで面白い。
「アーカムそして星の世界へ」フリッツ・ライバー
本作品集の中でも一際特異な作品。語り手である「私」がアーカムを来訪し、ラヴクラフトの作品にて描かれた登場人物たちと会話を交わす中で、作品では描き切られなかった事件の真相を知る、と言うもの。先にも書いた通り楽屋落ち感の強い作品なので何も知らないで読むと意味が分からないだろうが、先に註で触れた作品なんかを読んでおくととても愉快で楽しい作品。
ファンのファンによるファンのための作品と言おうか、登場人物との会話はもちろんのこと、最後に語られる御大の扱いからも作者の愛を感じる。コリン・ウィルソンへの言及も面白い。ただしこの作品、ユゴスからの菌類を始めとする人外への眼差しが温かいことにある種の薄ら寒さを感じるのは、私が「人類」と言う種に固執し過ぎているからだろうか……。
おわりに
と、気付けばかなりの文章量になってしまいました。最初は収録作品の内、一部の短編の感想を個別の記事にしようと考えていたんですが、書き始めたら止まらず、結局一冊丸々の感想となった次第です。
正直、感想だけならそんな長くはないんですが、冒頭で書いた初心者向け云々の話が無駄に長くなってしまいましたね。と言っても、入門者向けの文章としては中途半端な内容なので、この部分についてはもう少しまとまった形で改めて別の記事にしたいと思います。……そのためにもまだ読んでいないクトゥルフ関連の本を読まねば。
では今回はこの辺で。
*1:周知の通りラヴクラフトの作品すべてが神話要素を含んでいるわけではない。「アウトサイダー」のように『ネクロノミコン』やアーカムと言った用語が登場しない作品もあれば、それらの用語が登場すれどクトゥルフ神話要素の薄い作品も多い。
*2:“Nyarlathotep”についてはナイアルラトホテップ、ナイアーラトテップ読みが好み。
*3:ちなみにラヴクラフトの傑作、「クトゥルーの呼び声」が収められている「1」は読みやすくて面白いのでお勧め。またTRPG的な展開が好みならダーレスの『永劫の探求』が収められた「2」も入門には良いと思う。
*4:最低でも「ダンウィッチの怪」「闇に囁くもの」「狂気の山脈にて」「魔女の家の夢」「戸口にあらわれたもの」「時間からの影」は必読。余裕があれば「クトゥルーの呼び声」「宇宙からの色」「インスマスを覆う影」も読んでおくと吉。