たぶん個人的な詩情

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読書:アーサー・C・クラーク『2001年宇宙の旅』神への理性的アプローチ。知的興奮間違いなしの傑作。

先日、ユタ州の砂漠にて奇妙なものが発見されたと言うニュースが話題となった。それは何と、映画『2001年宇宙の旅』に登場する謎の石柱状の物体、モノリスを彷彿とさせるオブジェクトであったのだ。

公安局はこれについて「許可なしに連邦当局の管理する公有地に構造物または芸術作品を設置することは、どの惑星から来ていても違法だ*1という粋なコメントを残している。法に抵触するにせよ、ちょっと面白い試みだと思っても罰は当たらないだろう。

なんて暢気に思っていたら、ユタ州に続いて、世界各地でも立て続けにモノリスが発見されているらしい。ルーマニア、イギリス、オランダ、ポーランド、ベルギー……。

誰が何の目的で建てたかは知らないが、困惑とちょっとした笑いをもたらしたことを除けば、人類への影響は未だ出ていないように思われる。もっとも、ヒトザルに起きた些細な変化が「人類の夜明け」をもたらしたように、既に人類の一部には何かしらの変化が起きているのかも知れないが……。

と、そんな妄想はさておいて、今回はこのニュースを機に手に取った、アーサー・C・クラークによる小説版『2001年宇宙の旅』の感想を書いていこうと思う。映画版は長年折を見ては見返していたものの、恥ずかしながら小説版は読んでいなかったのだ。

ちなみに読んだのは、現在書店に並んでいる「決定版」ではなく一つ前の旧版。積んでいた「決定版」を家の中で紛失してしまっていたため、どうしたものかと思っていたのだが、先日立ち寄った古本屋で幸いにも見つけることが出来た一冊である。

下記のサムネイルではポッドのイラストが表紙を飾っているが、自分が手に入れたのは映画のワンシーンを表紙に使用したもの。フランク・プールを助けるためポッドに乗ったボーマン船長が、その窓からディスカバリー号を眺めている場面だ。

で、これから作品についての感想を書いていくわけだが、知っての通り、本作は映画の原作でもなければ、映画を受けて執筆されたノベライズでもない。とは言え、物語の大筋は同じであるため、下記の感想は映画・小説両方のネタバレを含んだものとなる。

そのため気になる方はご注意いただきたい、と一応書いておく。正直、本作がネタバレに配慮するべき類の作品なのかと言えば疑問が残るのだが……。

さて、まず始めに言っておくと、私はキューブリックによる『2001年宇宙の旅』が好きだ。彼が生み出した映像の先駆性と美しさは半世紀経った今でも通用すると思っているし、ダイナミックな音楽による感情の揺さぶりは何度見ても素晴らしい。

特に、人々がモノリスと邂逅する際に使用されるリゲティの楽曲は、宗教的な恐怖、言わば畏怖の感情を見るものに呼び起こす。わざわざキューブリックの言葉、例えば「神の概念が核心にあるとはいっていい――だが伝統的な、神人同形同性的な神のイメージではないんだ」*2といった言葉を引くまでもなく、あの映画が宗教、引いては「神」の問題をテーマとしていることに、異論を唱える者はそういないだろう。

説明をあえて省き、視覚と聴覚に訴えかけてくる映画版は、究極的には感情へと訴えかけてくる作品であった。論理による理解や理性的なアプローチが拒絶された結果、観客に残された選択肢は感情による朧げな把握しかないわけだ。

私は何度でも言いたいが、「人類の夜明け」においてヒトザルがモノリスを前にした際のシークエンスは、下手なホラー作品を見るよりもよっぽど怖い。だがしかし、映画版で描かれる恐怖は、ホラー映画が持つそれとは異なる根源的な恐怖、オットーが言うところのヌミノーゼ的な体験による恐怖に近いと言えるだろう。つまり映画版『2001年』は、感情に訴えかける形で神の問題を観客に提出したのだ。

そんな映画版に対して、クラークによる小説版は読者の理性へと訴えかけてくる。映画では省かれた合理的な説明がなされる点で、その違いは明白だ。例えば、モノリスを作り出した種族についての解説と彼らの意図、HALが暴走した理由、何故ボーマンはホテルの一室へと導かれたのか、そして最後に描かれるスター・チャイルドとは……。

これらの謎が明かされないために、映画版は難解だと言われている。逆に言えば、こうした要素に対しての説明がなされる小説版は、映画版が嘘のように分かりやすい。

そのため、小説版は同様の筋書きでありながら、映画版とは似て非なるものとして読者の前に立ち現れる。それは、理性へと訴えかけて読者に知的興奮を呼び起こす、ハードSFとしての『2001年宇宙の旅』だ。

丹念に描かれるヒトザルがヒトへと進化する過程は、さながら進化を扱ったSFのようであるし、宇宙旅行を可能にする技術の描写や未来予想図は、地に足の着いたクラークらしさに溢れている。中でも、無重力状態でのトイレについてのディティールの細かさは、感心するとともに思わず笑みがこぼれてしまった。

そして何と言っても、小説版は人類を超えた知的生命体、モノリスを生み出した生命体を理解できる存在として描いている点で映画版とは一線を画す。

映画においてボーマンは、HALの暴走を食い止めた後、会話らしい会話もないままに木星へと到着し、無限の宇宙の彼方へと飛んで行ってしまう。スター・ゲイトを通過する際、そして謎の部屋に降り立った際の彼の表情から伺えるのは恐怖、圧倒的な存在を前にしたことに由来する恐怖の感情であった。

これに対し、小説版ではボーマンの思考が地の文で語られるため、彼が最後まで理性を失わずにいたことがよく分かる。むしろ彼は恐怖することなく、人類初のファースト・コンタクトに知的興奮を抑えられないでいるのだ。彼は自らを待ち受けているであろう知的生命体に思いを馳せ、モノリスの出現に興奮し、星々が見せる未知なる現象の数々に魅せられ、自らの変容を理解し、そして受け入れる。

映画版では感情に訴え、恐怖を通して想起させた神を、小説版では理性に訴える形で説明している。神(に類する存在)と言うものがあり得るとすれば、こういった形なのではないかと言う一つの可能性を、論理と共に提出しているのだ。

同じ脚本を基にしながら、方や感情を、方や理性を通して神の存在を見る者の心に浮かび上がらせる『2001年宇宙の旅』と言う作品は、アプローチの違い故に優劣を付けられない。

だがしかし、ともに後世に残る傑作であることはまず間違いないだろう。映画を見て退屈でつまらないと思った方も、騙されたと思って小説版を読んでみて欲しい。きっと映画を見た時とは異なる感想を抱くに違いない。ボーマンを通して語られる宇宙の神秘と人類進化の可能性は、読む者に知的興奮を促すこと請け合いだ。

ちなみに、記事を投稿する寸前に気付いたのだが、昨日12月16日はクラークの誕生日であったらしい。知ってさえいればと後悔しても今さら遅く、仕方がないので数時間遅れのクラーク生誕103周年記念としてこの記事を投稿したい。

では今回はこの辺で。

決定版 2001年宇宙の旅 (ハヤカワ文庫SF)
 

2001年宇宙の旅 / 2001: A Space Odyssey (1968)

▶著者:アーサー・C・クラーク

▶訳者:伊藤典夫

▶カバー写真:MGM映画/CIC配給 映画『2001年宇宙の旅』より

▶発行所:早川書房

▶発行日:1977年5月31日発行

*1:AFPBB News「米砂漠で謎の「モノリス」発見 正体めぐり奇説飛び交う」https://www.afpbb.com/articles/-/3317720

*2:伊藤典夫「訳者あとがき」、アーサー・C・クラーク2001年宇宙の旅伊藤典夫訳、早川書房、1977年、268頁