はじめに
久しぶりにダン・ブラウンを読んだ。彼の作品の面白さは、その息もつかせぬスピーディな展開と、読者の知的好奇心をくすぐる数々の蘊蓄、旅行欲を掻き立てる芸術や街並み、建造物の描写にあると思う。静と動、この二つを共存させるバランス感覚は素晴らしく、自分の中では未だに一気読み必至の作家の一人だ。
今回もその例に漏れず、体調が悪い中でも一気に読み進めてしまった。中学の頃に読んで以来好きなシリーズで、私の絵画に歴史、宗教への関心の一端は、この作品が培ってくれたと言っても過言ではない。
とは言え、そんなお気に入りのシリーズにも関わらず、彼の作品を読むのはおよそ十年ぶりのこととなる。本作の単行本発売が2013年、文庫化と映画化がそれぞれ2016年であることを考えれば、随分と放置してしまった感は否めない。
買ったまま積んでいた理由はいくつかあるが、前作が思いのほか面白くなかったというのが大きいように思う。普通に楽しめはするのだが、わざわざ急いで読む必要はない作家、との判断を自分の中で下してしまっていたのだ*1。シリーズの監督を務めるロン・ハワードが「もうダン・ブラウンの小説の映画化作品を監督するつもりはない。同じキャラクターで同じ物語を何度もやるのはもうやりたくない」*2と監督降板を語ったと聞いた時は、その真偽はさておいて、どこか納得してしまったことを覚えている。
そんなこともあり、再びロン・ハワードがラングドン・シリーズのメガホンを取ると知った時は、驚くと同時に、『インフェルノ』への期待が否が応でも高まった。高まっておきながら今になって読み始めたわけだけれども、本書はその期待を裏切ることなく面白い。
感想
先に書いたダン・ブラウンらしさはもちろん、これまでにない試みがなされているのも本作の大きな特徴だろう。そのお陰かシリーズ特有の雰囲気に懐かしさを覚えつつ、同時に新鮮な気持ちで楽しむことができた。新たな試みの一例としては、本作では我らが主人公、ロバート・ラングドンが記憶喪失に陥った状態から物語が始まることが挙げられる。
なぜ自分はフィレンツェにいるのか、一体誰に襲われたのか、そして記憶を失うまでに自分は何をしようとしていたのか。お決まりの謎解きと並行して、本作ではラングドン記憶喪失の謎が終盤まで付きまとう。
またスケールの大きさと言う点でも本作からはこれまでにない面白み、ダイナミックさが感じられる。フィレンツェに始まる暗号解読の旅路は一都市に留まらず、犯人の野望の大きさはこれまでに類を見ない。『天使と悪魔』においてはヴァチカンが危機に晒されてしまったわけだが、本作では国境すら越え、世界が危機に瀕してしまうのだ。
そして、ダンテの『神曲』と言う物語性を持った補助線が引かれていることも、本作の新たな面白さに繋がっていると言えるだろう。『神曲』になぞらえた謎をラングドンが解いていく過程は、見立て殺人的なワクワクとストーリー性が感じられて面白かった。
もちろん本作はこれまでと同様、ミステリとしての魅力も十分に兼ね備えている。今回は随分と早くに全貌が見えたものだ、と舐めてかかっていた過去の私を叱責したいと思うほど、最後は見事に騙されてしまった。
ただしその点に関して言えば、ミステリ的なテクニック以上に、本作はそのスタンスからして読者を騙しにかかっている。ネタバレに配慮しつつ述べるならば、本書は読者が当然してしまうメタ読みや予想を外してくるのだ。エンタメであること、シリーズ作品であることを度外視してまで描かれたこの結末は、賛否が分かれる部分かも知れない。
だがしかし、ここに私はダン・ブラウンの新境地を見るとともに、その覚悟、つまりは本書が語る人口問題に対しての著者の痛切な訴えを感じてしまうのだ。私はこの結末を選んだことを評価したいし、このメッセージに意味がないとは言いたくない。
もっとも、この結末自体への不満はなくとも、作中での結末の受け入れられ方については疑問を覚えなくもない。特に、ある登場人物の開き直りとも取れる言動と、それに対する登場人物の反応からは、説教臭さと盲目的な崇拝に近いものを感じてしまう。
作中で提示された問題の解決方法は、いくら数理的に正しくとも到底許されることではない。中学生は極端な解決方法を好みがちだが、まさしくそれと似たものを感じる。ちなみに自分事で恐縮だが、まさに中学二年生と言う多感な時期の授業中、環境問題の解決方法として「人類の絶滅」を唱えた私からすると、最近流行りの共感性羞恥とも言うべきものが犯人の思想からは起こってしまうのだ。
それにしても、ガキのこんなくだらない意見を、意見として真正面から受け止めてくれた定年間近の国語教師、H松先生にはこの場を借りて感謝を捧げたい。もしそれを真っ向から否定などされていたら、今の私はもっと歪んだ成長を遂げていたことだろう。
と、最後は思い出語りとなってしまったが、本作はとても面白かった。
ダンテの「地獄篇」を読み、その恐ろしさに当時の人々が足繁く教会へと通うようになったように、ダン・ブラウンは本書をもって読者の目を一つの問題へと向けさせ、少なからず読者の意識を変えることに成功したのだ。その意味でまさしく本書は「インフェルノ」と呼ぶに相応しい*3。
それにしても、この変わり果てた世界を舞台に、今後どのように物語が展開されていくのか、続きが気になって仕方がない。幸い、既に続編の『オリジン』は出ているのだしこちらも早く読んでみたいところ。
あらすじを読む限り、どうやら「われわれはどこから来て、どこへ行くのか」と言う問題、人類の起源と展望について扱うらしい。これまで以上に壮大だが、史実や芸術作品を基に、如何にこのテーマを調理するのかは著者の腕の見せ所だろう。
ちなみに、アマプラに入っていたので映画も見たけれど、これは時間と広い心があれば見てもいい作品だと思います(婉曲表現)。それにしても、このコロナ禍にこの内容はちょっとタイムリーで驚きました。
では、今回はこの辺で。
▶インフェルノ / Inferno
▶著者:ダン・ブラウン / Dan Brown
▶訳者:越前敏弥
▶カバーデザイン:國枝達也 / ©DEA/G.NIMATALLAH/Getty Images
▶発行所:角川書店
▶発行日:2016年2月25日初版発行
*1:ちなみに、犯人の正体など要所要所は覚えているものの、内容はほとんど覚えていない。ただし、終盤で語られるキャメロン監督の『アビス』についての蘊蓄は何故だか覚えている。
*2:ニコニコニュース「ロン・ハワードが「ロスト・シンボル」監督を降板!「もうやりたくない」」https://news.nicovideo.jp/watch/nw93777
*3:もっとも、死後の救済と言う我が身に迫った問題ならまだしも、世代を越えた問題について私たちは驚くほどに無関心だ。事実、受け入れがたい現実から目を背ける、心理学で言うところの「否認」の例は作中でも触れられている。