はじめに
ここ最近、通勤時と帰宅時にタブレット端末で映画を観ていたりする。これまで車内では本を読んで時間を潰していたのだけど、経験者はご存知の通り、ぎゅうぎゅうの満員電車で本を読むのは地味に面倒くさい。
それに、本を読むというのはどこまで行っても能動的な行為だ。ただでさえ頭の回っていない朝の車内で頭を働かせるのは難しい。これから仕事で頭を使うのに、その前に消耗させてしまうというのももったいない。
そんなある日、知人から「アニメや映画を通勤時に観るのはお勧め」と言われていたことをふと思い出した。ならばと思い、試しにアマプラの映画をダウンロードして観てみたところ、これが実際悪くない。映画ならただ画面観ているだけで話が進むし、活字を読み進めるほどの労力もかからない。
もちろん、観ているのは頭を働かせる必要のある高尚な映画などでは断じてない。アクションやホラー映画でも、じっくりと腰を据えて観たい傑作・話題作の類は選択肢から外れる。
では何を観るのかと言えば、アマプラというサービスからも分かる通り、当然くだらないB級映画に他ならない。ぼーっと過ごしていた通勤時間を有意義にできるし、ブログを書くネタにもなる。わざわざ家で時間を割いてまで観たいとは思わないけど、気になってマイアイテムに突っ込んでいたB級映画の消化も出来る。一石三鳥だ。
というわけで、今回は私が車内で観た記念すべき初映画『ドラゴン・オブ・ナチス』の感想を書いて行く。
あらすじ
舞台は北アフリカ戦線。連合国軍の戦車部隊が、正体不明の敵性存在により壊滅させられた。連合国軍が極秘裏に入手した映像により、その正体がナチスの操るドラゴンであることが判明。空を自由自在に飛び回るドラゴン討伐のため、かつて凄腕の飛行機乗りとして名を馳せ、今や飲んだくれの厄介者と化したジョン・ロビンスに白羽の矢が立てられる。彼は再び空に舞い戻るため、名うての飛行機乗りたちを招集。果たして彼らはドラゴンを倒しナチスの野望を打ち砕くことが出来るのか。
感想
真面目だが面白くないB級映画
B級映画は真面目か真面目でないかの2パターンにまず分けられ、それが更に面白いか面白くないかで分けられる。つまりB級映画は以上4つの象限のどこかに位置することになるのだけど、実は真面目ではない作品、コメディ要素強めで馬鹿馬鹿しい、笑いに振り切ったB級作品の典型、みたいな作品は意外と多くない。
逆に、低予算ながら真面目に作っていて、その上で面白くないという地獄のような、毒にも薬にもならない映画がこの世にはたくさんあるのだ。『ドラゴン・オブ・ナチス』も言ってしまえばそんな感じの作品である。
真面目であるということは、裏を返せばB級映画らしい馬鹿馬鹿しさがないということを意味する。監督・脚本は『ビーチ・シャーク』や『シックスヘッド・ジョーズ』などのB級映画で知られるマーク・アトキンスで、同じく彼が監督を務めた『鮫の惑星』というサメ映画も、真面目ではあるがインパクトに欠ける、そう面白くはない作品の典型だった。
北アフリカ戦線にナチスがドラゴンを投入し、それを連合国軍の飛行機乗り達が迎え撃つ。このストーリーから一歩も脇道へ逸れず、それでいてカタルシスも深みもない作品が想像できれば、それはまさしくこの作品となるだろう。エッセンスとしてロンメル将軍を振りかけられればなお良い。敵ではなく、敵の敵の味方として。
個人的な見所
魔女の歌声
とは言え、見所が完全にないわけでもない。まずこの映画で「おっ」と思わされたのはナチスのドラゴンの操り方だ。その方法とはまさかの歌声で、胸元の開いた黒フードを着たアーリア系?の金髪美女たちが、歌を歌ってドラゴンを操るのだ。
このシャーマンと魔女の合の子みたいな女性たちの名はヴリル。これは恐らく二十世紀初頭のドイツに存在したとされるオカルト結社・ヴリル協会か、その元ネタであるエドワード・ブルワー=リットンの小説『来るべき種族』に登場するエネルギーの名前に由来している。
ちなみに、作中で世界を終わらせるという伝説を持つオスのドラゴンはアズダカと呼ばれるのだが、これも恐らくペルシアに伝わる邪竜アジ・ダハーカからだろう。この辺りのネーミングからも、本作からは妙な生真面目さが伺える。
と、そんな余談はさておき、ヴリルたちの澄んだ神秘的な歌声でドラゴンを操るという設定は、胸に秘めた中二病心をくすぐるには十分である。例えドラゴンたちのCGが大きめの蝙蝠といった域を出なくとも。ちなみに、ドラゴンはパッケージのような四つ足タイプではなく、前足が羽のワイバーンタイプとなっている。
生まれながらに鉤十字塗装のドラゴン
ヴリルの歌声で盛り上がりった気分もどこへやら、気付けば起伏もなく映画は終盤に至るのだが、最後の最後で本作はよく分からないトンデモをぶっ込んでくれる。それは満を持して登場するラスボス、オスのドラゴン・アズタカの造形である。
生まれれば世界が終わると伝説に残り、かつてカルタゴやローマが亡びた時にも生まれたとされるこのドラゴン。国連軍による爆撃の間際にヴリルの手によってこの世に生まれるのだが、何とこの竜、生まれながらにして飛膜にハーケンクロイツが刻み込まれているのだ。
そういうペイントなのか、そういう皮膚なのか、はたまた魔術に拠るものなのかは分からないが、これが不意打ち過ぎて面白い。しかも羽ばたくCGが意外と滑らかで、翼が波打つのに合わせて鉤十字が動くのだから、なおのこと面白い。ちなみにこのドラゴンはプロペラ一機の特攻で撃破されるし、単性生殖可能な設定が活かされることもなくハッピーエンドを迎えて本作は終了する。エミリッヒ版『GODZILLA』的なオチがあると思っていたが、これは流石にベタ過ぎたのだろうか。
おわりに
男女が逸れっぽく見つめ合ってキスをしていればラブロマンスになると勘違いしているのも良くないし、戦争+歴史を扱っておきながら杜撰な衣装も気になる。登場人物一人ひとりにスポットが当たらないため、誰が撃ち落されようと盛り上がらない。
などなど、文句や指摘を言い始めたら切りがないが、B級映画なんていうものは見せ場の一つ、記憶に残るシーンの一つでもあれば十分であろう。そのことを考えれば、この映画もB級映画史に爪痕を残したと言える、かも知れない。
最後に余談を一つ。主演のスコット・マーティンから何となく若い頃のマーティン・シーンっぽさを感じたのだけど、大手を振って言えるほど自信はないのでここで密かに告白して今回はこの辺で。
かつて『SFマガジン』の映画紹介欄で存在を知ってから幾星霜、ようやく観ることができたのもアマプラ様様である。値上げもあったり、プライムセールにも踊らされてしまった情弱だが、しばらくは会員として楽しませていただこうと思う
ではでは。